神の選択


名もなき定命の者から花を受け取るソーサ・シルの話。

*ESO英語版をプレイしているため、口調や言葉の定義に公式と異なるものがあるかもしれませんが、ご容赦ください。特定のクエストを前提にしたものではありません。  ソーサ・シルが書斎にいることが多いのは物語上の仕様です。

* 定命の者→ソーサ・シルの感情描写はありますが、直接的な描写はありません。


  偽りの神という呼び名を嫌ったことはない。人でありながら神の力を得た私は、真の神々よりも定命の者に近い存在であるがために、民からは常に具体的な願望を向けられた。光を求める者にとって私は神となり、虐げられる者にとって私は圧政者となった。私は彼らの目には映らず、私自身は、彼らを映す鏡でしかなかった。

「お会いできて光栄です、ソーサ・シル」

 その意味では、彼は最初から、鏡そのものを見ようとする者だった。私を神と呼ぶ人々が集まる聖堂に彼がやってきたのは、私の神の力ではなく、私の知識を求めてのことだった。ルシアーナは彼をサイジック会からの使いだと説明した。私の足元に傅いて頭を垂れる彼の髪は、雨に濡れた黒檀の鎧のように艶やかだった。

「顔を上げて話しなさい。君の求めるものは、私の足元にあるものではない。君の前にあるものだ」

 修理を重ねたローブをわずかに揺らして、彼がようやく顔をこちらへ向けた。精悍な顔つきの、青い目をした青年だった。その青色は、年中変わらないアルテウムの海のような穏やかさをたたえながら、同時に燃え滾る炎を秘めていた。

 サマーセット島で起こっている問題への対処法を尋ねた彼に、私はいくつかの知識を分け与えた。彼は頷きもせずにじっと私を見つめ、私の言葉を受け止めた。海のような青の中で燃える炎は、奇跡のようにも、災厄のようにも見えた。

 彼はその後も何度か私のもとへやってきた。やはりと言うべきか、この件にはデイドラ公が関与していて、そして事態は悪化し始めていた。

 人と人との争いについては干渉しないが、デイドラの相手となると定命の者では解決できないことの方が多い。さらにこの件は、かつて私がデイドラ公たちと取り交わした契約の綻びから生じた問題だった。私は彼に知恵を貸すことにした。

 その日、彼はいつものように、私の判断に素直に返事をして、そのまま立ち去ると思われた。いつも去り際の早い彼はしかし、部屋の入口の前で立ち止まり、振り返った。このとき、私は彼への助言の過程で研究中の装置を見せなければならず、私たちは広くない書斎で二人きりだった。

「あなたはいつも一人でここに?」

 これまで彼とは、サマーセット島の問題に関することでしか言葉を交わしていなかった。そのせいで、私は一瞬それがそうした主旨の質問なのだろうと考えかけた。彼の顔を見ると、その穏やかな二つの目には、炉の中で音も立てずに燃える鋼のようなあの熱は感じられなかった。それが彼からの個人的な質問であることを悟って、私はゆっくりと彼に向き直った。彼は沈黙を恐れるように、私の言葉を待たずに、再び背中を向けようとした。

「すみません、余計なことを……」

「余計であろうとも、価値がないとは限らない。君の質問に答えよう。ここに人を入れることは滅多にない。非常に稀だ。条件が揃うことは珍しい」

「条件とは?」

「切迫性と、示範性と、それから非代替性だ」

「非……」

「君以外に託すことができないことかどうかだ。今回のように」

 理解しやすいよう言い換えた私に安堵したのか、彼は再びこちらへ身体を向け、改めてこの褐色の金属だけで作られた書斎を眺めた。彼の穏やかな海の色をした目が動く様子に、私は初めて彼を一つの魂としてではなく、一人の人間として意識した。艶やかな黒い髪、グリフォンのように大きく鋭い目、白い肌。あの燃える眼差しがなければ、彼はただの好奇心旺盛な若者にしか見えなかった。

 社交に関心がなく、相手の立場や所属に関知しない性質のために、私はこの期に及んでも彼がなぜサイジック会に関わっているのかを聞いていなかった。実際、それは私にとっては必要のない情報だった。しかし私はこの「余計な」会話のために、彼に尋ねた。

「なぜこの件に?」

 私の質問に、彼は古いドゥーマーの遺物が散乱する作業台から目を上げて、驚いた顔をした。質問されると思っていなかったようだった。

「知ってのとおり、サイジック会は広く開かれた集まりではない。彼らを見つけた、或いは彼らに見つかった経緯は」

 彼は驚きの眼差しを向けたまま、幾度か瞬きをした。

「経緯……そうだな、いや……」

 彼は独り言に口籠ったあと、言葉とは逆に迷いのない目で言った。

「どこから始まっていたのか、自分でもわからないんです。ただ、すべきだろうと思うことをしていたら、自然とここへ」

「自然と。的確だ。君自身の本質が導いた結果だろう。全ては行動とその結果の繰り返しで成り立っている」

 彼が私の確信どおりの答えを口にしたことに、私は満足した。そして私はそれ以上の質問を見つけることができなかった。これで彼についてのほとんどを理解したと感じていた。

「では、行くべき場所へ向かうといい。私は君をそこへ導こう。少なくとも、今回については」

 そう告げると、彼は従わずにじっと私を見て言った。

「僕をここへ導いたのは、あなたではないんですね」

 それまでに見なかった頑固さを彼の瞳に見出して、私は答えた。

「私は自ら語り掛けはしない。君の問いかけに私が答え、君が伸ばした手を私が導く。鏡の中の虚像が君に話しかけることはない。それと同じだ」

「では、鏡の中へ何かを渡すことは? つまり、僕があなたに何かを差し出そうとしたら、あなたは受け取ってくれますか?」

 グリフォンの目が瞬いて、私を見つめる。彼は私の意図を理解したうえで尋ねているようだった。

「そこには要求も、見返りもない。いったい何を差し出すと?」

 私は単にそこに答えがないことを示したつもりだった。しかし彼は嬉しそうに笑い、短く答えた。

「例えば、花を」

 彼はその青い目を再び私の書斎に走らせた。ガスの灯りに照らされた彼の姿は、この鋼で出来た部屋ではあまりに異質で、そして彼が口にしたその単語はそれ以上に奇妙に聞こえた。

「……花。植物のことを言っているのか」

「ええ。他になにかありますか?」

 彼は初めて歯を見せて笑うと、生き生きとした口調で続けた。

「この街は……あなたが創るものは、正確で、終わりがなくて……美しい。でもどうしてか、僕は終わりのある不完全な美しさの方が、あなたによく似合うような気がしているんです」

 彼の口から詩歌のような言葉が出たことを、私は意外に思った。

「不完全な美しさか。面白い。だが私はそうしたものをすでに多く知っている。それが何になると?」

「何かになるかと言われたら、僕もわかりません。いや、きっと何にもならないでしょう、あなたにとっては。……余計なことを言いました」

 小さく肩を竦めて、彼はすぐに諦めようとした。しかし私にはそれを進んで止める理由はなかった。

「君がそうすべきと思うなら、そうするといい。これまでそうしてきたのと同じように」

 私がいつものように会話を終わりへ向けて送り出すと、いえ、と彼は小さく言って目を伏せた。

「ただ、そうしたいと思うだけなんです」

 青い目が、指先で力を加えられた葡萄の果実のように、わずかに撓む。私はその瞳にあの苛烈な炎の舌先を見た気がして、彼を仕事に戻らせるための言葉を告げた。

「私は求めはしない。だが拒む者でもない。君の心がそう求めるなら、君は従うべきだろう。君にとっては、それはすでに決まったことだ」

「……では、そうします。感謝します」

 彼は短い返事とともに頷くと、それ以上何も言わずに足早に書斎を去った。先ほど見せた技術のことを彼が忘れていないといいがと思いながら、私は彼が使った「似合う」という言葉の意味を考えていた。それは恐らく、適するという意味で使われた言葉ではないだろう。


 彼が本当に花を持ってきたのは、実際にはそれから数回目の訪問の時だった。サマーセット島での問題が混沌を極めることとなり、しばらく彼の目は炎を湛えたまま、休まることがなかった。そのあいだ、彼は一人の人間というよりも、一つの意志の塊だった。

 辛くもデイドラの侵攻を退けたという報告のために彼がやってきたとき、既に私はその結果を知っていた。彼がただの好奇心旺盛な青年ではないことを、私は実証的に理解した。

 私は彼に渡すべきものを用意していた。それは定命の者にとっては褒賞という当然の習わしだった。しかし実際それは私の手元にあるというだけで、遥か昔から彼の所有物と決まっていたものだった。

 彼の報告を聞き終えて、私は背後の飾り台からその品を手に取ろうとした。すると私の前に立っていた彼が、無言のままローブの内側から何かを取り出した。すぐ側で控えていたルシアーナが目を光らせるその先で、彼は私に向かって小さな花束を差し出した。それは特別な装飾を施されたものではなく、サマーセットに咲き乱れる数ある花々の中から、目立たず主張しない、小さな花を集めただけのものだった。

「ソーサ・シル。あなたにこれを」

 ルシアーナは顔色を変えた。彼女はここが聖堂内であることも忘れた様子で、背に携えた鉄槌の柄に手をかけ、低い声で唸った。

「お前は……何を考えている!」

 今にもその鉄槌で彼の手首ごと花を散らしそうな様子の彼女を制して、私は花を差し出したまま顔を伏せている彼に向かって言った。

「花か。つまり君の言葉はただの例え話ではなかったということだ。いいだろう。花瓶がいるようだな」

「花瓶? そんなものはここにはありませんよ。あなたがこれから創るなら別ですが。……まったく、何だと言うんです」

「使っていない食器は」

「……あいている水差しがないか見てきます」

 渋々ルシアーナが立ち去ると、我々は部屋に二人きりになった。頭を上げない彼の黒い髪を眺めながら、私は組んでいた腕を解いた。彼が俯いていて私の背丈が高いせいで、花はほとんど私の足元へ向けて差し出されていた。

「顔を上げなさい。……サマーセットからか」

「はい。今朝ここへ来る前に摘みました」

 ようやく顔を上げた彼は、白い頬を紅潮させて笑った。差し出された花に手を伸ばしかけて、私は思いとどまった。受け取らない私をじっと見つめる彼に、私は両手の指を再び胸の前で組んで告げた。

「花瓶を待った方がいいだろう。この手はこういったものに……つまり、原始的な有機物に触れるのには向かない。もしくは、君さえよければ魔法を使おう」

 組んだ指を動かして、私は彼に聞こえるように小さく金属音を鳴らした。どれだけ魔力で繊細な動きを可能にしたところで、金属であることに変わりはない。私が彼の答えを聞かないうちに魔法を用意していると、彼が小さく、しかしきっぱりと首を振った。

「魔法は使わないでください。あなたのその手に受け取ってほしいんです」

「……実験か。大胆だな。だが、精度をその目で確かめたいと言うなら、価値はあるだろう。好奇心はいつでも歓迎されるべきだ」

「いえ、そうじゃない。あなたのその手に似合うと思ったんです」

 笑みを浮かべた彼の瞳が、波打つように不規則に揺らめく。再び耳にした「似合う」という理解し難い彼の言葉に黙っていると、彼は急に真面目な顔になった。

「あなたを試すようなことはしません。……できません。どうか受け取ってください」

 彼の言葉に、奇妙な予感を覚える。彼が私の中に見たことのない願望を映そうとしているように思えた。私は頷いて言った。

「君がそう望むならそうしよう。それに、君に渡すものがまだここにある。その手を自由にするために受け取ろう」

 私は組んでいた指を解いて、彼が差し出した花へ機械の手を伸ばした。橙色の薄明かりに照らされる自分の手を、改めて眺める。すでに途方もない時間をともに過ごしたその鋼の手に、真新しさを覚える錯覚に陥る。燻んだ色の金属が描く滑らかな曲線に、白と明るい紫の小さな花が重なる。似合うという彼の曖昧な言葉の意図は、やはり正確には理解できないように思えた。

 彼は私が受け取ったことを確かめるように、不安げに手を離した。それでもなお私がそれを取り落とすのではないかと思っているのか、彼はしばらく手を伸ばしたまま私の手を見ていた。私は彼に言ってやった。

「慎重さは大切だ。だがこれはドゥーマーの遺跡で見る攻撃的な機械たちとは違う。特殊な回路で微細な魔力を巡らせているものだ。少なくとも、握り潰すことはないだろう」

「いえ……」

 彼は慌てたように手を引っ込めて、それでもまだ私の手を見ていた。言ったものの、私は相当に長いあいだこういった類の有機物に触れていなかった。柔らかく、頼りない、か細い生命の感触。簡単に、なすすべもなく、一瞬で壊れてしまう命。そうした有限のものに触れることは、私が想像していたよりも、遥かに落ち着かないことだった。

 私はルシアーナが水差しを見つけられないことを心配しながら、受け取ったばかりの花を背後の飾り台に置いた。改めて見ると、花々はまだ朝露を纏って、慎ましやかに輝いていた。

「……君にはこれを。民への協力と、その熱意に感謝しよう。勝利には、いつもそうであるように、黄金が相応しい。或いは君の言葉を借りれば……黄金が『似合う』だろう」

 私は彼に金貨と、それから強力な魔力を秘めた金色のアミュレットを授けた。デイドラ公を退けるほどの力を持つ彼にとっては、おそらく最良のものではないだろう。しかし褒美とは常にそういう性質のものだった。

「ありがとうございます。本当のことを言えば、あなたにお会いできたことが一番の褒美です」

 彼は私が止めなければ床に膝をついていただろう。野草を機械の手に握らせる頑固さと、その率直な慇懃さは、彼の中で不思議と共存しているようだった。しかし彼の本質はおそらく前者の方なのだろうと、私はそう感じていた。

「私は仕事に戻ろう。なすべきことはたくさんある。そして今では、なすべきはずでなかったことまでもが、私の目の前に現れるようだからな」

「……ソーサ・シル。あなたはそんなに毎日忙しいんですか。姿を現すことがめずらしいと聞きました」

 ルシアーナに任せることにして立ち去ろうとすると、彼が慌てたように引き留めた。子供のような仕草だった。

「何故それを聞く?」

「……花は、出来ればあなたのそばに。なんの魔力もないただの花です。あなたの書斎でも、もっと奥まった場所へ運んでも問題ないでしょう。世話をすれば十日ほど持つはずです。ルシアーナにやり方を伝えておきます」

「ルシアーナにか。勇敢だな。だが魔法を使えば、彼女に手間をかけることはない」

「いえ、魔法を使わないでほしいんです」

 再び告げられた言葉に、つまり、と促すつもりで彼を見ると、あの青い目が炎の熱を秘めて私を見ていた。

「失われていく美しさだからこそ、あなたに渡すと言いました。魔法が必要ないように、また新しいものを持ってきます」

 私は今度こそ少し呆れていた。

「熱意とは、君の内に燃えるものであるべきだ。その炎を明らかにしようとする者には、あらゆる物が近づかなくなる。良い結果は招かない」

「……つまり、」

「休息を。内に秘めた炎は、必要になるときまでとどめておきなさい。今の君のその熱意は、戦いで残った熱がそうさせるだけのものだ」

「いえ、それは違います」

 彼が私の言葉を明確に否定したのは、これが初めてのことだった。彼はあの青い目で私を見つめて、一息のうちに言った。

「以前から、この件が終わったら申し出ようと。あなたの研究の役に立つことをしたい。どこへでも行きます。ブラックリーチの奥深くの洞窟でも、アリクルの砂漠に埋もれるドゥーマーの遺跡でも。オブリビオンの領域にも進んで行きましょう」

 彼とはこれまでに何度も言葉を交わしていたが、彼がここまで積極的に自分の希望を述べたのは初めてだった。そしてそれがあまりに頑なで強引なものであることも意外だった。彼を捕えているのがこういった類の、ある意味私自身に似た本質であることに私は興味を持った。実際、彼に言い渡せる仕事がないわけではなかった。

「君がそう望むなら、そのようにするといい。だがそれは私の望みではない。君の意志に応えるのは、私ではなく君自身だ。これまでそうだったように、それはこの先も変わらない」

 私が最後まで言わないうちに、彼は海の色の目を細めて笑った。液体が固体に変わる瞬間のような神秘を認めて、私は彼を早く帰すために、背後の飾り台に置いた花をもう一度手に取った。最後の言葉を告げる前に、ようやくルシアーナが戻ってきた。金属の水差しを持ってやってきた彼女は、花を携えた私の姿を見て、それから私の前にたたずむ青年を見て、もう一度私を見た。不機嫌そうな顔をしていた彼女は、顔を曇らせながら、それでも事務的なことだけを口にした。

「水差しを見つけました。合うかはわかりませんけど」

「結構」

 彼女が飾り台に置いた口の広い水差しに、私は革紐で緩く束ねられた花々をそっと据えた。彼のあの眼差しが向けられるのを感じながら、私は言いかけていた言葉を彼に告げた。

「光が強くなればなるほど、その影は濃く深くなる。私がこの世界の闇を照らそうとする者なら、その背後で濃くなる影を見つめる者も必要になるだろう」

「はい」

 彼が今にもブラックリーチを目指しそうな様子でいるので、私ははっきり告げることにした。

「旅の途中でデイドラ公と対峙することもあるだろう。気まぐれな彼らの現状を知るのは研究の助けになる。役立ちそうな情報があれば聞こう」

 ルシアーナが再び不機嫌そうな顔をするのがわかった。目の前に立つ定命の者は、まるで喜びの表情を隠すように頭を垂れて、返事をした。

「そのようにします」

「だがもう一度言おう。これは使命ではない。君自身の意志に従うといい。それから、何度も言うように、私にはすべきことが山ほどある。不在のときは彼女に言伝を」

「はい、そうします」

 ルシアーナは当然嫌な顔をした。私は落ち着かない感触が手から離れたことに安堵しながら、ホールを後にした。背後で扉が閉まるまで、背中に彼の視線が注がれているのを感じた。

 ほどなくして、彼との厄介な会話を終えたらしいルシアーナが私を追って書斎へやってきた。彼女は私が不要な部品やスクラップを置いていた作業台に、飲み終わったジョッキを置くようにして水差しを置いた。

「なんて無礼な! しかも私に植物の世話など、」

「礼儀を知らないわけではないだろう」

「ですが、花など……! あなたをプリンセスか何かだと勘違いしているのでは」

「面白いな。君がそんな冗談を言うとは」

「冗談ではないです。……あの目」

 そう言って、彼女は飾り台の上の花を見た。私の手と同じ色をした水差しの中で、それは忘れかけていた初級の呪文の言葉のように、古く懐かしく、後ろめたい不安を感じさせた。

「危険があるように見えると?」

 率直な意見を聞きたくて尋ねると、彼女は怪訝そうな顔をした。

「危険? いいえ、とんでもない。毒にも薬にもならない植物です」

 私は彼女が言った「あの目」について尋ねたつもりだった。しかしいずれにしても、彼女は好意的な返事をしなかっただろう。

「世話は君に任せよう。勿論、世話をするかどうかも含めてだ」

「……まさかこの街で……あなたの元で植物の世話をするとは。ダメにしても笑わないでください」

 その答えから彼女の選択を理解して、私は頷いた。


「ソーサ・シル! また彼です、まったく!」

 書斎に飛び込んできたルシアーナの剣幕に、私は彼女に子細を伝えていなかったことに気が付いた。彼女がここまで嫌な顔をする心当たりから、「彼」が誰であるかは推測でき、そして彼女の言葉から、彼が運んできたのが情報だけではないことが知れた。

「あなたが忙しいことを伝えたら、この私にちっぽけな花を渡そうとするんです。我慢できません」

 私はドゥーマーの遺物を使った実験を止めて、彼女をなだめなければいけなかった。

「それで、私に何をさせようと?」

「あなたに? いえ、彼にですよ! その水差しを持っていって、ここへ自分で放り込ませるんです。まったく、こんなに毎日手間がかかるとは……どうして魔法を使わないんです?」

 彼女に今にも握りつぶされそうな水差しの中で、持ち込まれたときよりは軸の柔らかくなった花が、頭を垂れるように揺れていた。実際は、彼女は文句を言いながらも毎日水差しの水を交換し、その切り口を替えていた。彼女が怒気を放ちながら部屋を去ろうとするので、私は作業台から離れた。

「私が行こう」

「ですが、」

「花だけを持ってきたわけではあるまい。ちょうど一区切りついたところだ。話なら聞こう。君も来るといいだろう」

 彼女はまだ何か言いたそうにしながら、渋々私の後をついてきた。

「手間をかけるだけのものかどうか、見てみよう」

 ホールへ入ると、橙色の薄明かりの中で、あの青年がまっすぐに立っていた。私の姿を見ると、彼は急いで頭を垂れた。その様子は、水差しの中でうなだれる古い花と似ていた。

「用件を聞こう」

「すみません、あなたの邪魔をするつもりは……」

「私の時間は限られているが、君に与えられたそれよりも遥かに長いだろう。顔を上げて話しなさい」

 彼のいつも濡れたように黒い髪を眺めながら告げると、彼は手に持った花を大事そうにローブの下へしまった。

 彼が語った内容は、想像よりもずっと興味深いものだった。今度はオーリドンの民に協力しているらしく、そこで起こったデイドラの魔術に関する問題について、彼は非常に明晰に、正確に説明した。私はいくつか質問を投げ、彼はそれに自らの考察を交えて返した。そのあいだ、彼の瞳にはあの炎のゆらめきが宿っていた。私はそのことに安堵した。

「興味深い。他に知る者は?」

「まずここへ来ました。サマーセットにも影響がありそうなので、これからアルテウムへ向かいます」

「その必要はない、私から知らせよう。……君の情報はきっと役立つだろう。少し待ちなさい」

「いえ、お気遣いはいりません。この件はオーリドンで完結しています。ここへ来たのは僕の意志です」

 皮肉の言葉にも取れたが、彼の目は真剣だった。離れたところに控えたルシアーナが、気まずそうに頭をかく。彼女が携えた水差しのことを思い出すのと同時に、彼が続けた。

「これを受け取ってください。それで十分です」

 彼がローブの下から再び取り出した花は、熟れる前のプラムのような、濃淡のある薄紫色の花だった。私が手を伸ばすと、彼は即座に駆け寄って私の手にそっと花を押し当てた。

「魔法を使いませんでしたね」

 受け取ろうとした私に、彼は小さな声でそう言った。おそらくまだ不機嫌な顔でいるルシアーナのために、私は答えた。

「ある意味では、魔法の詠唱よりもずっと複雑で困難なことだろう。彼女のお陰だ」

 彼はルシアーナに向かって笑顔を見せると、両手で私の手を支えるようにしながら、大事そうに花を手渡した。一瞬だけ彼の指先が私の手に振れたような気がしたが、その感触は定かではなかった。

「古い花は捨てても?」

 沈黙を裂いて、鋭いルシアーナの声が飛ぶ。彼ははっとしたように顔を上げた。

「いえ、それは僕が」

「お前は……いい加減に、」

「ああ、違う。深い意図はないんです。あなたに世話をしてもらったものだ、そんなに簡単に捨てるわけにはいかない」

 足の長い虫を見るような目を向けたルシアーナに、彼は慌てて砕けた口調で説明した。突き返された古い花を手が濡れることも気にせずに受け取ると、青年は臆せず彼女に言った。

「もっと萎れているかと思って急いで来たんです。ルシアーナ、あなたが繊細な人でよかった」

「繊細ですって?」

 声を大きくして返したルシアーナは、私が近づくのにも気付かない程に困惑していた。私は手を伸ばして彼女の手の水差しへ新しい花を据えた。

「心遣いには感謝しよう。……これからどこへ?」

 私が質問すると、彼はやはり驚いた顔をしてから、しかしまっすぐにこちらを見て答えた。

「サイジックへの伝言をお願いできるなら、オーリドンでやり残したことを済ませます。それから、いずれにしてもアルテウムへ向かうつもりです。ロアマスターから召喚が」

「信頼を得たな。彼らからの依頼では、長旅になるだろう。そして恐らく休むことは許されない。昔からの悪癖だ。彼らは自分たちができることを、他の誰もが同じように容易くできると思っているからな」

「そうかもしれません。でも、折を見てここへはまた」

 やはり頑なな彼に、私は普段であれば決して口にしない言葉を、彼のために告げた。

「祈りなさい。私はどこにいても君を見つけられる」

 私の言葉に、彼はわずかに目を開いた。それは驚きとも喜びとも違う表情だった。彼の青い瞳は一瞬だけ冬の海の色になって、それからまたすぐに穏やかさを取り戻した。

「……そうですね。でも、なるべくはここへ。僕の望みです」

 そう言って姿勢を正した彼のローブの合わせから、金色の光が煌めいた。わずかに覗いただけだったが、それは確かに私が与えた魔力のアミュレットだった。私はこの面会を終わらせるために、最後の言葉を告げた。

「友よ、良い旅を」

 彼は笑って頷いた。


 結局、私の提案は受け入れられなかった。彼は必ず花が枯れる前に私の元を訪れた。彼の話を聞く日もあったが、当然それが叶わないこと期間の方が長かった。私が一度も聖堂に戻らないうちに花が置き換えられたことも、数えきれないほどにあった。しかし彼はその習慣をやめなかった。

 私よりもはるかに彼から花を受け取ることが多いルシアーナも、徐々に小言を言わなくなった。それどころか、彼女は植物に関する本を探してきて、私の書斎の環境で花を日持ちさせるための方法を研究するまでになっていた。

 最も驚くべきは、彼が毎回のように興味深い報告を携えてやってくることだった。彼は私にとっても稀な人物だった。そして彼はいつも報告の終わりに、ローブの下から花を差し出した。デシャーンの艶やかな花、アリクルのたくましい花、マークマイアの奇妙な花。彼は自分の旅の話を「余計な」ことだと言ってほとんど語らなかったが、そうした花々が代わりに彼の足跡を語った。

 彼はいつも、それを受け取る私の手を見つめた。私はそれを好奇の眼差しだと考えていた。彼は私の手を見つめ、私の目を見つめ、私の言葉を待った。彼の青い瞳は大抵いつも穏やかで、暗い水面を照らす灯台のような、孤独な安らぎを湛えていた。


 その日、彼はほとんど真夜中の時間帯に私を訪ねてやってきた。眠ることのないこの街に、そして私にとっては差し障ることではなかったが、礼儀正しい彼がそこまで急ぐのは珍しいことだった。  彼は書斎に一人でやってきて、遅い時間の訪問に顔を伏せて謝罪したあと、事の次第を簡潔に説明した。彼が今はヴィヴェクに手を貸しているということ、そしてヴィヴェクの力に関して問題が起こっているという事実には、私は驚かなかった。それよりも彼がヴィヴェクに関することでこの私を訪ねてきたことが、私には不思議だった。

「ヴィヴェクに言われてここへ?」

「いえ、以前あなたに見せてもらった器具の仕組みが役に立つのではと気がついて……僕の判断です」

 納得し、安堵まで覚えて、私は頷いた。

「鋭いな。悪くない判断だ。ヴィヴェクにとってどうかはわからないが」

「ヴィヴェク卿には話していません。だからこそ、必ず結果を出さなければいけない。それに……ヴィヴェク卿の力については、あなたが一番よく知っているだろうと」

 控えめな彼の言葉に、私は彼が急いでここへやってきた理由に思い当たった。この訪問は一方的な依頼のためのものではなく、彼にとっては重要な報告のためでもあった。

「いいだろう。君の予想どおり、恐らく私の技術は役に立つ。少し時間を」

 私は作業台の上に彼が言及した器具を取り出して、細かな調整を施すことにした。しばらくの沈黙のうちに、少し時間があることを悟ったのか、隣で見ていた彼が思い切ったように顔を上げて言った。

「ヴァーデンフェルには、ヴィヴェク卿に会うために行ったんです」

「……そうか。ヴィヴェクは私にとっては兄弟のような存在だ。随分と長いあいだ会ってはいないが」

 事実のみを返した私に頷いて、彼は青い瞳で私をじっと見つめた。

「本を何冊か読みました。……あなたについての本を。それでヴァーデンフェルへ」

 私は顔を上げた。鬱屈した、湾曲した感情の一つも知らない瞳が私を見ていた。私は彼がこの件を持ち出した理由を考えて、彼に尋ねた。

「それで、何か真新しい見解が? アルマレクシアの欺瞞に満ちた童話のことを言っているのでなければ、君の意見を聞こう」

 私の言葉に少しだけ笑ったところをみると、彼はどうやら私の憂慮どおりつまらない本までも読んだようだった。この話題で人々が私に尋ねる質問は限られるので、私は手を動かしながらいつもの答えを並べて彼の言葉を待っていた。しかし彼は尋ねなかった。

「いえ。どんな本を読んでも、僕がここで会うあなたとどうも重ならないんです。僕があなたについて勝手な……、間違った印象を抱いているだけかもしれません」

「印象か。人々は私についてそれぞれ異なる印象を抱くものだ。それらは全てが誤りで、全てが正しい。私について書いた本も同じだ。だがどれも事実とは言えないだろう。彼らは私自身ではないからな」

 私はそう答えて、この話題を終わらせた。そして手元の器具に微細な魔力を加えながらその使い方を彼に説明してみせた。彼は私の隣で長らく黙っていた。彼が本当に話を理解しているのか疑問に思う頃になって、ようやく彼が言葉を発した。

「ソーサ・シル」

 私の隣に立つ彼の声が、いつもよりも近かった。説明を終えて確認のために器具を眺める私に、彼が改まった口調で尋ねた。

「触れてもいいですか」

「勿論だ」

 私は点検を終え、彼が手に取りやすいように器具を作業台の端へ置いた。そのすぐ隣で、水差しの縁に寄りかかる三輪の白い花が微かに揺れた。花々がもう随分とうなだれていることに気付くのと同時に、隣に立っていた彼が床に膝をついた。私が顔を向けると、彼の手がこちらへ伸びた。しかしその手が伸ばされた先は、作業台の上の器具ではなく、作業を終えて指を組んでいた私の機械の手だった。

 そっと私の手の甲に触れた彼は、少し躊躇ってから、そのまま大事そうに私の左手を取った。私は彼の言葉を誤解していたことにようやく気が付いた。そして彼もその認識のすれ違いに気づいたはずだった。しかし彼は謝らなかった。手を止めることもしなかった。

 沈黙の中で、彼は堅い椅子に腰かけた私の膝元で俯いて、両手で包んだ私の左手を見つめた。海の色の瞳が、零れそうに滲んで光る。そこには確かにあの燃える炎の揺らめきが宿っていた。

「……君の好奇心を歓迎しよう。感覚は当然ある。温度や質感もわかる。だがいずれも魔力を使って感知するものだ。真の意味での感覚とは異なるかもしれない。私はそのあいだの優劣について語るつもりはない。本質の異なる力だ」

 彼は青い目を伏せたまま、先ほどと同じように私の話をおとなしく聞いていた。それから彼は堅く目を閉じると、ゆっくりと身をかがめ、手に取った私の機械の手に頬を近づけた。彼の手が震えているのを感じ取って、私は彼を止めることを思いとどまった。

「ソーサ・シル。あなたはなぜ、」

 彼の頬が、機械の手にゆっくりと押し当てられる。疑問の形式で始まった彼の言葉は、そこで途切れた。

 彼の手よりも、手渡される花々よりも、ずっと柔らかく、暖かく、おぞましいほどに生々しい生き物の感触。私は思い出すことも叶わないほどに長いあいだ触れることのなかったその感触に、心の奥深くに何重にも鍵をかけてしまい込んだかつての罪の手触りを思い出していた。

 胸の内を、針の嵐のような激しい感情が駆け巡る。憤怒、失望、悲嘆、諦念。理論と倫理の衝突、選択。後悔。

 私はなぜ。彼の言葉を繰り返したこの胸は、その瞬間、確かに傷つき、血を流した。しかしそれはほんの一瞬の出来事だった。私の心は、今彼の手の中にある機械の手よりも遥かに長い時間をかけて、私自身が、何よりも頑丈に、強く堅く作り上げてきたものだった。

 魔力を帯びた金属の皮膚が、間近にある彼の唇の迷いを感じとる。私は彼の言葉を待った。

「いえ……僕は、僕は心から……」

 彼の頬がゆっくりと離れる。彼は濡れたように黒い髪を揺らして首を振ると、まるですがるような呼吸とともに、私の手の甲に震える唇を押し当てた。私の心は、その奥底にあるものに再び鍵をかけ、静かに時を刻むだけで、もはや痛みを覚えることはなかった。彼はゆっくりと唇を離し、摘み取った花をそっと置くように一言ずつ呟いた。

「心から……感謝します、あなたに」

 静かな、しかしはっきりとした口調だった。私はこれまでにも幾度となく告げられたその平凡な言葉の背後に、捨てられた言葉があることを理解した。私は彼の選択を尊重する答えを告げた。

「私は君の先を歩く者ではなく、君と共に歩む者でもないが、君の道を照らすことはできるだろう。顔を上げて立ちなさい。君には為すべきことがある」

 私の言葉に、彼は再び瞼を閉じて沈黙した。まだ私の手に触れそうな彼の唇が、何かの言葉の形に動く。私がその言葉を理解するより先に、彼ははっきりと目を開けた。澄んだ海の色の瞳が波打つように揺れる。彼は顔を上げて、まっすぐに私の目を見た。

「あなたの知恵を借りていきます。返すときには必ずいい報告を。それから、次は花も」

 青い目に、あの炎のゆらめきは宿っていなかった。私が彼に言葉をかける前に、彼は立ち上がり、作業台の上の魔具を大事そうに手に取った。

「さようなら、ソーサ・シル」

 そう言い残して、彼は風のように素早く去っていった。私は静かな書斎で、ようやく疲労を覚えた。膝の上に置いた機械の手は、冷たい部屋の空気の感触に包まれて、重く静まりかえっている。片付いた作業台の上で、頭を垂れた白い花がぼんやりと浮かび上がった。

 間を置かずに、書斎のドアをノックする慣れた気配があった。入りなさい、と返事をすると、いつもよりも遠慮がちな様子でルシアーナが部屋を覗いた。彼女は作業台の前に座る私を見て、ほっとしたように部屋に入ってきた。

「なにかあったのかと」

「なぜそう思う」

「彼が一目散に去っていったので……彼はあなたに何か?」

 目を細めて部屋に異変がないかを確かめるルシアーナに、私はゆっくりと答えた。

「何も」

「……彼の用件は? こんな遅くに訪ねてくるなんて」

「彼はヴィヴェクの元に戻った。私は情報を得て、代わりに知恵を貸しただけだ」

 その名前を聞くと、ルシアーナはそれ以上尋ねることをためらったようだった。代わりに彼女は私に向かって別のことを口にした。

「彼に何か……何か言ったんですか? その、戒めというか」

 曖昧な彼女の言葉に、私は沈黙を返すことで説明を求めた。ルシアーナは迷いながら続けた。

「彼、今にも泣きそうな顔をしてました」

 私は不安定な角度に置いた左手を、軽く一度握った。魔法は名残を保たず、この身は余韻というものを知り得なかった。

「何も。私は彼が進む道を照らすことしかできない。道はすでに決められたあとだ」

 私の回答に、ルシアーナは作業台の上でうなだれる花を見た。私は再び疲労を思い出して、彼女に告げた。

「次は持ってくると。……ほかに何か?」

 私の問いかけに、彼女ははっとして、いえ、と首を振って部屋を去っていった。今度こそ一人きりになった部屋で、私は目を閉じた。白い花。海の中の炎。限りある命の暖かさ。あなたにとっては何にもならないでしょう。初めに彼が言った言葉を思い出して、私は冷たく押し黙る左手を動かした。私に残されたのは、彼の肌の感触でも、血を流す心臓でもなく、正しく確実な機械の感覚だった。


 ほどなくして、彼はヴァーデンフェルでの一件が解決したことを報告しにやってきた。彼は魔具を私に返すと、いつもと同じ感謝の言葉を口にし、そして花を差し出した。水差しに残っていた白い花は、このときほとんど枯れかかっていた。

「思っていたよりも時間がかかりました。返すのが遅れてすみません」

「良い報告は時間をかけてもその意義が損なわれることはない。ヴィヴェクを助けたことは、私からも礼を言おう」

 花は埋め合わせをするように数が多く、ヴァーデンフェルの濃い発色の花は華やかで芳しかった。いつものように私がそれを受け取ろうとすると、彼は落ち着き払った声で言った。

「この前のことを謝ります」

 ホールの扉近くに立ったルシアーナが顔を上げる。私はゆっくりと彼から花を受け取った。

「何についてその言葉を?」

「あなたに無礼を働きました。愚かなことを」

「君の自己評価を否定することはしないが、無礼かどうかは私が決めることだ。そして私はそれを否定しよう」

 顔を上げない彼の後ろで、ルシアーナが落ち着かない様子で身体を揺らした。私は彼女が妙な誤解をしている気がして、彼にはっきりと伝えた。

「この手について尋ねる者は珍しくない。触れようとする者は少ないがね。いずれにせよ、私は君を責めはしない」

「いえ、僕は……、あなたに言わなければいけないことが」

 彼の声は低く、その下にある感情を必死で抑えようとしているように聞こえた。報告を述べるあいだ、彼はそんな素振りは少しも見せなかった。その忍耐に驚きすら覚えそうになりながら、私は提案した。

「私はこれから君が使った道具を本来の姿に直さなければいけない。だがこれを君に貸した時と同じくらい簡単なことだ。手を動かしながら聞こう。書斎へ」

 彼は返事をしなかった。ルシアーナが安堵したように身動ぎをし、素早く身を翻した。彼女は早くこの場から逃れたいようだった。

 彼を書斎に招いてほぼ時間を空けずに、ルシアーナが新しい水を入れた水差しを持って部屋を訪れ、そしてすぐに去った。私は彼から受け取ったままだった植物を水差しに置いた。新鮮なままの花々の繊細で危うい感触は、そのか弱さとはかけ離れた強引な意図を感じさせた。いつもより量の多いそれが水差しの縁いっぱいに広がるのから目を逸らして、私は彼から返却された器具を作業台の上に置いた。

「そこへ座りなさい」

「いえ、このままで」

「その頑なな魂が君を勝利に導いてきたことは私もよく知っている。だが今はその時ではない。君が勝利の暁として黄金を受け取るのと同じように、君の肉体は休息を得るべきだ」

 私の言葉に、彼はようやく部屋の中心に据えられた椅子に座った。私が作業台の前の椅子に腰かけると、私たちはほとんど同じ目線になった。初めて正面から見る彼の瞳は、グリフォンのそれのような鋭さはなく、思っていたよりも随分心許ない様子をしていた。

「言わなければならないことがあると言ったな。君の言葉を聞こう」

 部屋は静かだった。換気用のダクトから、機械地区のファクトタムが自らのステータスを読み上げる音声が微かに聞こえた。椅子に座ってもなお俯いていた彼が、顔を上げて澄んだ瞳で私を見た。

 彼はしばらく何も言わなかった。乞うわけでもなく、訴えるわけでもなく、彼の視線は私を見据えたまま動かなかった。時折ゆっくりと震えるその睫毛の瞬きがなければ、私は彼が息をしているかどうかを確かめねばならなかっただろう。

 静かな夜の気配に、私はいくつかの結末を予想していた。しかし私の手でそれを選択することはできなかった。彼はやがて息を潜めるような声で切り出した。

「僕は、」

 再び訪れた沈黙は、長く続かなかった。

「僕は、あなたを神だと思って崇めたことはありません。あなたに祈りを捧げたこともありません」

 私は驚かなかった。しかし彼があえてその言葉を口にしたことには、やはり興味を抱いた。一度話し始めると、彼の唇は堰を切ったように言葉を紡ぎ出した。彼の目にはあの青い炎が激しく燃えていた。

「あなたに告げる言葉を考えるとき、僕はあなたが神であることを忘れてしまうんです。そして、僕は一つの答えを見つけます。僕は喜んでその言葉を握りしめて、すぐにあなたに届けようと思う。けれど……」

 言葉どおりに強く結んだ白い拳を私に差し出して、彼は自ら疑うような視線をその拳に注いだ。

「けれど、走り始めた次の瞬間に、ふと思い出すんです。あなたが神だという事実を」

 静かにそう言うと、彼は顔を上げて私の目をじっと見つめた。海の中で燃える炎。奇跡のような、災厄のような神秘。彼の言葉を遮りたくなるのを抑えて、私は沈黙した。彼は再び自分の拳を見ると、硬く握ったそれをゆっくりと解いた。

「すると、握ったはずのその言葉は、砂のように指をすり抜けてどこかへ消えてしまう。僕はあなたに伝える言葉を見失ってしまう。……いつもそうなんです」

 柔らかく、心許ない定命の者の手。彼の答えを示すように、何も持たない手のひらが橙色の灯りに照らされた。じっとその白い手のひらを見つめる彼に、私は用意していた言葉を返した。

「興味深いな。君は私が神であることを事実と呼ぶが、私にとってはそうではない。君の言葉を奪っているのは私ではない。君自身だ」

「ええ、もちろん。でもあなたが手にした力は、神の力です。あなたの神性は、あなたが用意したものではないかもしれません。でもあなたが招いた結果です」

 彼の白い手のひらは柔らかく開かれたままで、その表情も声色も、凪いだ海風のように穏やかだった。

「違いますか?」

 疑問の単語はほとんど確認の意味で使われたに過ぎなかった。私は彼を静かに見つめて、予め決まっていた答えを口にした。

「物事は常にそうならざるを得ない性質を持つものだ。私が招いたとも言えるかもしれないし、或いはその結果に招かれたのかもしれない。だがどちらにも大きな差はない。ここにあるのは結果だけだ」

「そのとおりです。僕はその結果を責めたいわけではありません。ただ、あなたが持つその神の力とは……神性とはいったい何なのかを考えると、時々虚しくなるんです」

 彼は胸の前で不安げに開いたままだった手のひらを再び握って、ゆっくりと膝の上に置いた。彼が本当に告げたかったことはこれから説明されることなのだということを、私は理解した。

「続きを。君の見解を聞こう」

 彼は一呼吸置いて、作業台の上の水差しへ目をやった。依り代にするように、彼は花々に向けて語った。

「神の力と……神性。僕は、それが何なのかを言葉で説明出来るように、目に見える確かなものとして定義するために、あなた方が……いえ、あなたがいるのだと思います。それは、ソーサ・シル、あなたにしか出来ないでしょう」

「……全てを肯定できるわけではないが、君の理解はひとつの正解だ。物事を定義することは、目に見えない曖昧なものへの恐怖と服従を克服することだからな」

 実際私は驚いていた。私は彼に研究によって生み出された技術や器具を見せることはあったが、その目的について語ったことはほとんどなかった。彼が書物を読んでその考察に至ったのか、私の言葉をそう捉えたのかはわからないが、彼は確信しているようだった。彼は私の言葉に頷いて、鮮やかな花々に目を細めながら続けた。

「そうです。あなたはこの世界を理不尽な恐怖から解放するための答えを探している。……でも実は心の奥底では、僕はあなたがその答えにたどり着かないことを願っているんです」

 静まりかえる部屋に、微かな花の匂いが漂う。彼のその選択によって、私がいくつか思い描いていた結末は残り一つになった。私が頷いて促すと、彼は花々から目を逸らし、ゆっくりと私の目を見た。彼の瞳からはあの炎の揺らめきは消え去っていた。

「果たしてその答えは……この世界は、あなたが払った犠牲に見合うだけのものでしょうか?」

 彼は彼自身の答えを、疑問の形で私に投げかけた。私はその質問への答えを口にする気はなかった。彼がそれを望んでいないことがわかっていたからだった。広大な冷たい海を照らし続ける小さな灯台の光のように、彼の瞳は優しく、諦めの色をしていた。

「……でも、もしあなたがその答えにたどり着かなければ、きっとこの先誰もそこにたどり着くことはないでしょう。そしてこの世界にはまた気まぐれな神の支配の時代が訪れる。あなたが誰よりもそれを望まないことは知っています。それに僕はあなたの研究のために尽くすと決めた。こんなことを話してもまだ許される余地があるなら、あなたがその答えを見つけるまで、僕はどこへでも行きます。その答えがあなたにとってどれだけ残酷なことであったとしても」

 黙ったまま彼を見つめ返す私に、彼はふっと表情を緩めた。小さく肩を竦め、彼は嬉しそうに続けた。

「けれど同時に、僕には確かにこの手に握ったはずのあなたへの言葉があるんです。何度手の中から消えてしまっても、それは嘘ではありません。その言葉のために、僕はあなたに祈りを捧げることはしません。これからもきっとそうでしょう」

 彼は膝の上で再び拳を握って、青い瞳を細めて笑った。私は彼にとってこれが一つの別れであることを理解した。そして私はそれを受け入れた。

「君の旅はこれからも続くだろう。それは私がこの研究を止めることがないのと同じだ。我々はその繰り返しを止めることができない。だが……君は、いつかその連鎖の出口を見つけるだろう」

「出口は要りません。僕は愚かなままで構わないんです。許されるのなら、出来るだけ長くあなたのその連鎖の内側にとどまることを望みます」

「……頑固だな。だが愚かではない。君がそう望むなら君の道はもう決まっている。君を止めるものはないだろう。少なくとも、今この時は」

 彼との対話はそこで緩やかに歩みを止めた。行き止まりに行き当たった我々は、互いにじっと耳を澄ましてしばらく沈黙した。通気口から、ファクトタムが誤ったコードを読み上げる音が微かに聞こえる。どれだけ創り上げても、磨き上げても、この世界は完成せず、それは神の力を持ってしても同じことだった。

「花を受け取って欲しいんです。言葉の代わりです」

 初めて提案するように、彼はそう呟いた。私を見つめるアルテウムの澄んだ海は、晴れやかで美しかった。

「そうしてきたはずだ。これからもそうしよう」

「魔法も使わないでください」

「……いいだろう。それが君の望むことなら」

 頷いた私に、彼は安心したように微笑んだ。

「感謝します。心から」

 これまで幾度となく彼の口から告げられたその言葉は、彼にとっては終わりの言葉だった。濡れたように黒い髪、青い瞳。見慣れたと思っていた彼のその姿を改めて眺めて、私は彼に告げた。

「こちらへ」

 手のひらを差し出して促すと、彼は戸惑いながら立ち上がった。ガスの灯りが金属の家具に柔らかに反射する部屋で、私は彼のために出来ることを考えた。私の足元に跪こうとする彼を制し、私は彼に告げた。

「そのままでいい。両手を」

 不安げに差し出された両手を、私は自分の両の手のひらで受け止めた。彼が息を呑む。彼が私の手をそうしたように、私は彼の手を軽く握り、じっと眺めた。

 柔らかく、不安げで、か弱いその感触。頼りなく危うく、憎むべきほどに脆い命。私が今望めば、この命を堅く強靭で、壊されることのないものに変えることが出来る。時間をかければほとんど終わりを知らない存在にすることも出来るだろう。彼を出口のない連鎖の中へ閉じ込めることは、難しいことではなかった。しかしそれは真の神々のみに許された所業で、偽りの神である私は、鏡の中の虚像でいることしか出来ないのだった。

 彼が身じろぎをする気配を感じる。私は随分と長いあいだ彼の手を眺めていたようだった。私はこの時、自分が迷いを覚えているのかもしれないと気付いた。それは私にとって大きな驚きだった。

 私は顔を上げ、目の前に立つ彼の顔を眺めた。私が座っているせいで、彼の青い瞳は私よりも高いところにあった。見上げて眺めると、それは海というよりも、この街に創り出すことのできないあの美しいタムリエルの空の色に近いようにも思えた。

 私は彼の手を握った自分の手に、少しだけ力を込めた。弱い磁力で弾かれるような感覚とともに、彼の肌が魔力を帯びる。その艶やかな髪がわずかに広がり、青い瞳に波が寄せるような輝きが宿った。私を見つめるその瞳の色は、澄んでいて、穏やかで、とても美しかった。

 私は彼の呼吸に合わせてゆっくりと力を鎮めて、その柔らかな両手をもう一度そっと握った。

「……君のような人が私の近くにいたことは、これまでにあまり多くない。ほとんどないだろう。私はそれを嬉しく思う。友よ、今は休みなさい。私は君の肉体を休めることはできても、君の魂は君自身にしか休ませることができない」

 彼の両手をそっと彼に返して、私はこの儀式を終わらせた。当然、魔力は実体を介してしか影響を与えられないものではなく、私は彼の手を握る必要などなかった。彼もそれを理解していた。

 彼は私が施した弱い魔法に目を瞬かせた。もっと大掛かりなものを覚悟していたのだろう。或いはそれは期待だったかもしれない。しかし私はそうしなかった。彼は私をじっと見つめて、ゆっくりと両手を引いた。

「さあ、帰るべき場所へ帰りなさい。そして休息を。またすぐに誰かが君を見つけるだろう。君は歯車と同じように、回転し、繰り返し、やがては壮大な仕組みを動かす力を生み出す。これまでと同じように、これから先も」

 私の言葉に彼は少し遅れて頷いた。

「そうしましょう。出来るだけ長く回り続ける歯車でいられるように」

 彼は先ほどまでの会話を忘れてしまったような慇懃さで顔を伏せ、今度こそ別れの言葉を口にした。

「さようなら、ソーサ・シル」

 彼はいつも去り際が早かった。彼にとってはこの時が、私との最初の別れの瞬間だった。


 彼の訪問はその後も変わらずに続いた。彼が運ぶ情報は常に有益で、私にとっても興味深かった。彼はルシアーナともよくやっているようだった。彼は時々この街にとどまり、彼女と街の偵察に出かけたり、贅沢な民の些細な注文に答えたりした。世間知らずな使徒たちの横暴な依頼にも、彼は懇切丁寧に対応した。

 私は彼とよく話し合った。大抵それは各地でのデイドラの振る舞いや狡猾な画策についての会話だったが、彼はあらゆる地方で見聞きした魔術の類についてもよく報告をした。不思議なエネルギーを持つ魔具や遺物を持ち込むこともあった。それは大抵、何らかの大きな力を保つための、或いは奪うための道具だった。私たちはそれについて考察を交わし、意見を出し合い、多くのことを学んだ。

 時に我々はこの街の歴史や、現在の課題について語ることもあった。この街の未来について語ることすらあった。そしてごく稀に、我々は個人的なことについても語った。彼についてはかなり昔にほとんどのことを理解したと感じていたが、彼に言わせれば「余計な」彼の情報の中には、時に私ですら見たことのない、奇妙な発見があった。

 彼はいつも花を持ってきた。私の書斎には、初めと同じ金属の水差しに、常に花が飾られていた。それが枯れる頃になると彼はこの街にやってきた。時が経つにつれ彼の風貌は青年から大人のそれに変わったが、彼の青い瞳はいつも驚くほどに澄んでいて、美しかった。


 その日私は十日もあけずに聖堂に戻り、一人で書斎にいた。街の基礎を作り出す古いシステムの中の、ごく小さな部品が壊れていると報せを受けてのことだった。いつもであればそれくらいのことで自分の作業を止めることはないが、その仕組みを作ったのがあまりに昔で、また私が自ら細かな調整と手間を重ね続けていたがために、誰もそれに対処できる者がいなかったのだ。

 私が壊れた小さな部品を直す方法について考えていると、書斎の扉をノックする音が聞こえた。いつもと同じその響きの中に少しの変化を覚えて、私は顔を上げて答えた。

「入りなさい」

 私は手にしていた小さく複雑な部品をそっと作業台の上に置いた。その向こうでは、朝に彼女が世話をしたばかりの花が、面を傾けて立っていた。花はタムリエルの南に咲く、白と紫のささやかなものだった。

「ソーサ・シル」

 ルシアーナがいつもの言葉を口にしなかったことで、私はいくつかの結果を予想した。彼女はいつも、厄介そうに、それでも親しげに、「彼です」と告げるだけだった。しかし今日は違った。

「彼のことで」

 しばらく我々のあいだに沈黙が流れた。ルシアーナの表情は、ちょうどドアの真上に据えたランプの逆光のせいで曖昧だった。私はゆっくりと立ち上がった。振動でわずかだけ揺れた作業台の上で、恭しく頭を垂れた花が頷いた。

「行こう」

 ルシアーナはくるりと背を向けて、私の前を歩き始めた。途中で見えた彼女の横顔は、私の見たことのない、人間の顔をしていた。

 ホールで待っていたのは見慣れない一団だった。屈強なレッドガードの男に、この街では珍しい四本の脚で歩行するカジートの姿もあった。彼らはこの街についたばかりのようで、彼らからすれば奇妙なこの街の景色と、今抱えている任務の重責に疲弊している様子だった。

「エルスウェアからの一団です。門の前でファクトタムが止めましたが……救援信号が出て、私が。四体ダメになりました」

 ルシアーナの言葉に、一団の一人である二本足のカジートが気まずそうに身じろぎをした。私は頷いてルシアーナに先を促した。彼女は小さく肩を竦めて、短く言った。

「悪い報せです」

 ぶっきらぼうな彼女の言葉に、一団の真ん中に立つレッドガードの男が顔を上げた。

「ソーサ・シル。私から、彼について……」

 続けて、男の太い声が、彼の名前を私に告げた。その時私は、自分が彼を名前で呼んだことがあまりなかったことに初めて気が付いた。そして同時に、彼の魂の断片が、すでにその名前の中にしか存在しないことを悟った。

「彼の最後について、報告を」

 男の隣で、長い髪を結い上げた若い女が俯いた。静かなホールの外では、いつものように忙しなく働くファクトタムの足音と、スプールの回る規則正しい金属音が響いていた。私はそのレッドガードの男の名を知っていることを思い出して、ゆっくりと頷いた。

「続けなさい」

 男は潔く頷いて続けた。

「彼は南エルスウェアで、我々に力を貸していました。……ドラゴンの問題についてです」

「……ドラゴンか」

「はい。エルスウェアではドラゴンが脅威になりつつありました。彼はドラゴンの持つ力に興味を持ったようで、我々に協力を。ドラゴンが長い眠りのあいだに力を保つ方法……それから、ドラゴンが神として存在していた時代のことについても調べているようでした。……その目的は、我々には最後まで理解が出来ませんでしたが」

 私は黙って男の話を聞いていた。彼はこれまで私にドラゴンの力に関する話をしたことはなかった。しかしそれは納得のできることだった。彼はいつも私に余計なことを言わないように、確実で、正確な情報だけを報告した。

 ルシアーナが焦れたように息を吸い込む。男は私の沈黙に困惑を見せながら続けた。

「……今回が最後の戦いになると、我々はわかっていました。彼は最後まで戦いました。そしてまさにドラゴンが力を失おうとしているときに……彼はドラゴンに近づいて、何かを……尋ねたんです、恐らく。それが何かは我々には聞こえませんでした。すぐ後に、ドラゴンが最後の力で、彼を……」

 男が言葉に詰まる。その続きを予想して、私は男が再び口を開くのを待たずに言葉を放っていた。

「彼の身体はどこへ」

 私の口から出たその言葉に一番驚きを見せたのは、当然ルシアーナだった。彼女はぎょっとした様子で振り向き、私の顔を見た。そして彼女の次に驚いたのは、私自身だった。驚くべきことに、私はほとんど無意識にその言葉を口にしていた。我々の思い当たるところを知り得ない男が、苦悶の表情で私の質問に答えた。

「それが、見つからず……」

「見つからない?」

 咎めるようなルシアーナの言葉に、肩を震わせていた女がぐいと顔を上げた。鳶色の強い瞳が私とルシアーナを交互に見て言った。

「彼はドラゴンのシャウトに飛ばされて、崖の下へ……海へ落ちたんです。全員で探しましたが、見つかりませんでした」

「本当に見つからないと?」

 食って掛かるルシアーナに、女が震える声で告げた。

「彼女は……鼻が効きます。島中を端から端まで走りました。けれど、彼の気配は感じられないと」

 彼女、と示されたのは、四本の脚で歩く大きなカジートのことだった。その言葉はルシアーナを沈黙させるには十分だった。私は頷いて一団に尋ねた。

「それで、ドラゴンの件は」

「解決しました。我々の土地は、民は守られました。彼のお陰です」

「良い報せだ。彼一人では決して成しえなかったことだろう。君たちの力でたどり着いた結果だ」

「しかし我々は……彼を失いました」

 震える男の声に、ルシアーナがたまりかねたように首を振った。彼女は地が震えるような声でゆっくりと叫んだ。

「……『我々』ですって? 誰の前でそんなことを……! 彼がどんなに、どれだけ……!」

「ルシアーナ」

 私は彼女を強く遮った。それはほかならない彼女のためだった。我々の様子に、一団の者たちは戸惑っていた。無理もない話だった。

「……謝罪しよう。彼は我々にとって古くからの友人だった。彼女の動揺を許してほしい。私から、君たちの報告に感謝を述べよう。それから、勝利への祝福を」

 私が立ち去ろうとすると、慌てた様子で女が脇に携えた荷物を開いた。その中から彼女が取り出した布の包みに、私は懐かしい魔力の気配を感じた。丁寧に折りたたまれた包みを開くと、彼女はその中から取り出したものを私に見せた。

「海へ落ちていく途中で、彼がこれを投げたんです。とても大事にしていたようでした。咄嗟にそうしたのかと……ここへやって来たのは、返すべき人を探すためです」

 彼女がその手に持っているのは、かつて私が彼に渡した黄金のアミュレットだった。私が確かめようと前へ進むと、彼女は慌てたように手を引いた。

「すみません、あなたの手には……あまり清潔ではないものです。まずは手がかりをと……」

「構わない。それは私が彼に渡したものだ」

 彼女は息を呑んだ。私が促すと、彼女はようやく前へ進み、震える手で私に黄金のアミュレットを掲げてみせた。受け取ったそれは、南の地の泥に汚れ、鎖は途中でちぎれており、魔力も弱まっているようだった。しかし長い時間と数多の戦を耐えてきた割に傷はなく、私が彼に手渡したときと同じように、勝利に似合う黄金色をしていた。

「この街のことは、彼から聞いていました。時々は帰っていることもわかっていました。自分のことはほとんど話さない人でしたが……どんなに激しい戦いの後でも、彼は休むこともせずに、この街へ向かうと言って……行かなければいけない用事があるからと言うんです」

 女はそう言うと、褐色の金属だけでできたこの聖堂のホールを眺め回してから、アミュレットを手にした私を見上げ、遠慮がちに尋ねた。

「彼はいったい、ここで何をしていたんでしょうか」

 彼女の質問の向こうで、記録用のスプールが軽やかな音を立てて回り続けている。私は機械の手に握ったアミュレットを、もう一度眺めた。魔法は名残りを保つことができず、そこに彼の余韻は感じられなかった。私は彼女に答えた。

「彼はここで、彼自身の望みに従って、彼のすべきことをしていた。時に余計なこともあったが、無駄なことは何一つなかった。彼は私の良き友人で、理解者だった」

 私の言葉に、彼女はまだ何か言いたそうな顔をして俯いた。代わりにしばらく黙り込んでいた男が、私とルシアーナの顔を見て尋ねた。

「……彼の家族がいる場所を? 荷が重い仕事ですが、同じことを伝えなければ……」

「家族?」

 槍のように飛んだルシアーナの鋭い声に気圧されながら、男が頷いた。

「家族か……もしくは、それに近い相手がいるのではないかと」

「……彼に家族はいないはず。少なくともこの街では彼はよそ者よ」

 ルシアーナの言葉に、男は不思議そうな顔で黙った。同じく戸惑った様子で、隣に立っていた女が首を振って告げた。

「でも……でも彼、花を摘んでいたんです。この街に帰る前に、エルスウェアの花を。とても大切そうに、一つ一つ選んでいました」

 ルシアーナが聞こえないほどの小さな声で悪態をついた。私はそれを咎めなかった。沈黙したままの私に、女は必死な様子で訴えかけた。

「私、彼に聞いてみたんです。それをあなたからもらえるのはどんな人なのかって。彼、笑いながら、私に冗談を言ったんです。『神様のような人』だと。とても幸せそうな顔で……愛おしそうに……まるで……」

 彼女の声は途中で震えはじめ、そしてその鳶色の瞳は、ランプの色をゆっくりと反射して光った。彼女が耐えきれずに顔を伏せると、ルシアーナが低い声で唸った。

「……もう充分」

「しかし、きっと誰か……」

 女の代わりに言葉を継ごうとしたレッドガードの男を遮って、私は彼らに告げた。

「必要な者には、彼女から報せよう。君たちの役割はこれで果たされた。旅の疲れを癒していくといい」

「でも、きっと彼には……」

 濡れた瞳で縋るように私を見る女に、私はゆっくりと告げた。

「もう一度言おう。君たちの役割はこれで果たされた。私から感謝を述べよう」

 私の言葉に、女はまた何かを言いかけてから、はっとした顔をした。彼女の濡れた目が、私の顔を見つめたまま大きく見開かれる。私がアミュレットを握り直すと、ちぎれた鎖が指のあいだで優しい音を立てた。彼女はそれを聞いて、私の機械の手をじっと見つめたあと、その目を再び濡らして顔を伏せた。乾いた金属の床に、彼女の涙が音もなく落ちた。


 書斎に戻って、私はアミュレットの鎖を直した。そしてそのくすんだ黄金色に手をかざして、少しの力を込めた。それはすぐに元どおりの魔力と輝きを取り戻した。

「身体があったらどうするつもりだったんです?」

 彼女がノックもせずに書斎に入ってきたことに、私は気付いていた。低い声で投げられたその質問に、私は作業台の上に光り輝くアミュレットを置いて答えた。

「ルシアーナ。君も知ってのとおり、身体だけが残っていても、私に何かが出来るわけではない」

「どうするつもりだったのかと聞いただけです。……で、探すんですか?」

 粗暴な口調でそう尋ねた彼女には答えないまま、私は作業台の前の椅子に座った。放り置かれた小さな部品を手に取り、それを眺める。ルシアーナは私が作業を始めても部屋を出ていこうとしなかった。

「……彼は生きています」

「なぜそう思う」

「あなたが気付かないわけがない。あなたは彼がどこにいても見付けられると」

「そうだな。だが祈りがあればの話だ。そして彼は祈らなかった。一度も。最後まで」

 小さな歯車の形をした部品に、少しの魔法を加える。微細な魔力に震えるそれに指先でそっと圧力を加えると、歪んでいた歯車が再び均衡を取り戻した。しかしそれにより、次はその隣の歯車が噛み合わなくなってしまう。小さな部品に向き合ったまま沈黙する私に、ルシアーナがため息をついた。納得しない彼女のために、私は手の中の部品を作業台に置いて、その隣にある黄金のアミュレットを眺めた。彼に与えたときと同じ状態になったそれを視線で示して、私は彼女に言った。

「君は知っているはずだ。私がこれを直すのが初めてではないことを」

 ルシアーナは黙ってその光り輝く黄金色の宝物を見つめた。このアミュレットは私の元にあっても私の所有物ではなく、遥か昔から彼の、そして彼らのものだった。

 やがて彼女は諦めたように息を吸い込んで、ゆっくり頷いた。

「……ええ、知っています。回数も記録しています。でも彼は……彼だけが、」

「君が記録している回数は君がここへ来てからの回数だ。その前のことは知るまい」

 彼女の頑固さを窘めるために遮ると、ルシアーナは言いかけた言葉を飲み込んでため息をついた。そして彼女はアミュレットを眺めると、続けて私の顔を見つめて、呆れたように肩を竦めてみせた。

「まだ何か?」

「……いえ。でも、アミュレットを魔力で直すなら、その花も魔力でとどめてはどうです?」

 彼女の視線の先で、金属の水差しの縁に寄りかかる白と紫の花が頭を垂れていた。か弱く、繊細で、優しい生命の力。何にもならないでしょう、あなたにとっては。そう言って私を見つめた青い瞳。アルテウムの美しい海。

「もう新しい花は届きません。それに私は枯れるだけの花の世話はごめんです」

「枯れるだけか。だがこれまでも同じだったはずだ。花とはそういうものだ」

「同じじゃありませんよ。次があるとわかっているから続けていられたんです。……魔法を使ってください」

 沈黙を返す私に、ルシアーナはじっと息をひそめてから低い声で私に尋ねた。

「誓いを破って後悔するのが怖いんですか?」

 私は花々から目を上げて彼女の顔を見た。彼女は私と目が合うと、顔色を変えて身構えるように背を伸ばした。恐らく、私は彼女にあまり見せたことのない表情をしていた。

「ルシアーナ。悪いが一人にしてくれるか。私にはすべきことが山ほどある」

 彼女はそれでも気丈に私の顔をじっと見て、それから顔を伏せた。

「失礼しました。……処分するならファクトタムを寄越します。すみませんが、私にはできません」

「その必要はない。私がやろう」

 会話が沈黙にたどり着くと、ルシアーナは顔を伏せたまま部屋を去っていった。彼女にとってこの喪失は、私が思うよりも、そして彼女自身が思うよりも大きいものになるだろう。それは今はまだわからないことでもあった。

 私はしばらく作業台の上で壊れた小さな部品と向き合っていた。それなりに工夫が必要とされたものの、部品はほどなくして元どおりになった。指先から魔力を与えてそれを動かすと、心地よく微かな金属音を立てながら、小さな歯車が正確に回転した。私はその部品を作業台の上に置いた。

 目を上げると、水差しの花々が自然と視界に入った。作業台の上で、そのしおれかけた花々だけが、完璧ではなく、正確でもなく、不確実な存在だった。金属だけで出来た部屋を、ガスの灯りがすべて同じ色に均等に照らし出す。その中で終わりゆく白と紫の花々は、憎らしいほどに美しかった。

 私は手を伸ばして、指先でそっと花に触れた。白い花の少し傾いた首の部分を持ち上げると、花は私の方へ顔を向けた。想像よりもずっと柔らかく、儚げな感触。しかしそこには、生命の存在も、暖かな体温も感じられなかった。それは当然のことだった。

 私は花を戻すと、水差し全体を覆うように手のひらをかざした。私の機械の手の影に覆われて、花々はじっと沈黙している。私がこの手に少し力を加えれば、花は決して枯れることのない命へと変わるだろう。最後に彼から手渡されたときと同じように、朝露をまとった、瑞々しい姿のままで。

 この部屋のあらゆるものと同じ色をした機械の手を見つめながら、私は考えた。私が手にしたこの神の力とは、いったい何であろうか。私はあのとき、いったい何者になったのだろうか。

 私はなぜ。その答えを得るためのこの果てしない連鎖の輪は、私が偽りの神であるがゆえに、頑なで正確で、しかしどこまで行っても終わりが見えなかった。

 私の手の向こうで、静かに頭を垂れた花が、私の選択を待っている。 



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