ハート

ドワーフの遺跡にて、名前の由来と心臓のかたちについて。


 最初にコイツに会った時のことをまだ覚えている。近所の子供に「死にかけのエルフがいる」と言われて向かった小川のそばで、ソイツはでかい木に凭れて座っていた。涼しい顔で子供と言葉を交わす男の様子に、いたずら好きな子供たちを叱ろうとした俺は、男の長い足の先から湿った黒い影が伸びていることに気が付いた。影は長く小川の流れにまで伸び、水に触れると鮮やかな赤色になって水面を踊った。

「あなたが『パラダイス』ですか。お騒がせしてすみません、ワニに気付かず眠ってしまいまして。治療は必要ないと思うんですが、服を借りられます?」

 食いちぎられたローブの肩口は、赤黒く濡れて元の色がわからない。こちらを見上げるひんやりした緑色の瞳は、こんなことをもう何十回も何百回も繰り返してきたと言うように落ち着いていた。子供たちは不思議そうな顔をして、先ほどまで死にかけていたはずのよそ者の姿を眺めていた。

 俺は狭い自宅にソイツを案内して、身体を洗わせた。顔に似合わず筋肉質な胸には大きな傷跡があり、けれどそれは随分古いもののようだった。

「あんた、どこから来た?」

「クロックワーク・シティです」

「あのな、言いたくないならそう言えばいいだろ。つまらない冗談はよせ」

「冗談は苦手です。ところで『パラダイス』は愛称ですか?」

「……ハート・イン・パラダイスだ。似合わないから面白がってみんなパラダイスと呼ぶ」

「『ハート』ですか」

 彼はボロ布になった服を丸めながら、一つに編んだ長い髪を揺らして顔を上げた。感情の起伏に欠ける涼しげな表情が少し緩む。ソイツは初めて俺に興味を持ったようだった。

「それは心のことを? それとも心臓の意味ですか?」

「……さあな。どっちだっていいだろ」

 おざなりなこちらの答えにも、彼は満足したように頷いた。

「ハートとお呼びしても? 素敵な名前だ」

 嫌味なくらい整った顔のエルフにそんなことを言われると、決まりが悪い。誰にでもこんなことを言うのかと訝りながら、丈の足りない綿織のローブを羽織って真面目な顔をしている男に返事をした。

「なんでもいい。……大袈裟だな。珍しくもなんともないさ、誰でも持ってるものだ」

「ええ、僕も昔持っていたことが。……いい服だ。ありがとう」

 礼を言いながら振り返った彼の冷たい瞳が、遠い昔から定められていたかのような正確な動作で瞬きをする。大きな手がローブの上からいたわるように押さえた傷の形を思い出すことは、もう難しかった。


「ハート?」

 小枝が爆ぜる乾いた音のあいだから低い声が覗く。記憶を辿る手を止めて背中を伸ばすと、遺跡の冷たい空気が鼻孔をついた。揺らめく焚き火の向こうに目を凝らす。幾何学模様の刻まれた巨大な扉の手前に、銀色の髪がぼうっと浮かび上がった。

「気が付いたか」

「すみません。僕、眠ってました?」

「眠ってたんじゃない、気を失ってたんだろ。……息をするのもやっとで、ここまで引きずってきたんだ。そのでかい図体をだぞ」

「そうでしたっけ……いや、そうでしたね。あの巨大なセンチュリオンは?」

 キャンプ用の小さなベッドロールに収まらない身体を起こしかけて尋ねるソイツの顔は、焚き火の灯りに照らされて暖かな色をしている。ドワーフの玩具のどでかい刃にやられて倒れたとき、コイツの腕はほとんど肩から離れかけて、吹き出すほどに血を溢れさせていた。穴の開いた器から水が逃げていくのを眺めるような、あの冷たい焦燥感。思い出して、身体を包んでいた尾をぎゅっと丸める。

「……ちょっとつついたら壊れたよ。あんたが無理したおかげでな。コアは無事だ」

 彼は地面にぐっと手をつき、ゆっくりと起き上がった。ささやかな炎の向こうから、袖の破れたローブ姿が覗く。長い腕はしっかり肩にくっついていた。

「またあなたに助けられましたね。感謝します」

 涼しい色で輝く宝石みたいな目で言われると、まるで自分の方が夢を見ていたような気分になる。思わず歯のあいだで湿った息を鳴らして、俺は仕方なく言葉を飲み込んだ。

 こんなことが、もう両手の指では数え切れなくなるくらいに起こっている。コイツの身体がいったいどうなっているのかはわからない。俺の力でないことはとうに気付いていたし、コイツも俺が違和感を覚えていることに気付いている。それでもまだ理由を聞けずにいるのは、普通の命が耐えられるはずのない損傷から回復すると、決まって彼が無口になるからだった。

 揺らめく炎の向こうで、この日も彼は静かだった。腹立たしいくらい様になる気取った横顔を向けて、ソイツは目を伏せて何かを考えていた。細い枝の爆ぜる音を待つだけの長い沈黙に、何度も呑み込んだ疑問を口にしようとすると、それよりも早く彼が口を開いた。

「ハート。僕はあなたに感謝しています」

 薄緑の瞳は炎を見つめていた。彼がよく口にするその平凡な感謝の言葉は、けれど今日はただのきっかけでしかないようだった。触れてはいけないものを見せられる予感に、思わず背筋を伸ばす。

「なんだよ、今更だな。だいたいそう思うなら……」

「このまま終わりにしようと思ったことが、何度かあります。数えるほどですが」

 身構える暇もなく目の前に突き出された言葉に、息を呑む。炎の向こうで目を伏せた彼は、構わず単調な口ぶりで続けた。

「地面に転がったまま、手足が動かなくなって、痛みも感じなくなって。空っぽの木箱になったような……とても穏やかで、優しい感覚なんです。待ち望んでいたような気さえするんです。でも、僕にはどうしても出来ない」

 彼は懐かしむように、悔やむように目を細めてゆっくりと首を振った。

「どうしても、回り続けなければいけないんです。そうしたいと心が願うんです。悲しいほどに、抗えないんです」

 突然何を言い出すんだと笑い飛ばすには、遺跡の夜はあまりに静かで穏やかだった。彼は頭上高くに淡く照らし出される遺跡の天井を見上げると、子供が星を眺めるような無邪気な眼差しで語った。

「それを思い出して、もう一度痛みに手を伸ばすと、目が覚めるんです。たった一人で。そのとき僕は……途方もない孤独を感じるんです。広い夜空だけが目の前に広がっていて、それが与えられたもの全てであるかのような。とても美しくて、目が離せなくて……でもとても寂しいんです」

 そこまで言うと、彼は視線を下ろしてこちらを見つめた。古い大理石の彫像のように、何にも動かされることのない表情が、炎の中で揺れている。涼しげな色の瞳を少し細めると、彼は微かに笑った。

「あなたが一緒に来てくれるようになって、そんな思いをしなくて済むようになりました。あなたがいてよかった。ありがとう」

 顔を伏せ、胸に手を当てる癖。避けていた会話の結論だけを先に告げられ、俺はずっと尋ねることのできなかった質問を心の奥底から引っ掴んだ。

「その手の下に何がある」

 振り返った彼は、こちらの視線を追って初めて自分の癖に気付いたようだった。ああ、と手で押さえたローブの胸元を改めて眺めると、ソイツは優しく肩を竦めた。

「きっとあなたのものとは形が違うでしょうね。どう説明すべきか……恵みと言えるかもしれませんが、どちらかというと僕にとっては罰なんです。何と呼べばいいのか僕にもわかりません。でも……とても大切なものです」

 大きな手のひらを胸に強く押し当てるその姿は、祈りを捧げる姿勢ではなく、もっと率直で温度のある感情が呼ぶ仕草のように見えた。多分、俺はその感情の名前を知っていた。

 何一つ具体的なことを言わない彼を責める気は起こらなかった。じっと息をひそめて胸を押さえる彼に、俺は尾の隣に転がしたままだった石を手に取って、彼の名前を呼んでから短く告げた。

「……『ハート』だ」

 焚き火越しに、透き通った赤い石を投げる。胸に当てた手を素早く動かしてそれを受け止めながら、ソイツはう、と短くうめき声を上げた。勢いよく動かした肩がさすがに痛んだらしい。俺はその反応を見届けて、満足のうちに地面に横になった。頭の下に回復の巻物が入った鞄を押し込み、ぱちぱちと小さな音を立てる焚き火に背中を向ける。

「センチュリオンから引っこ抜いておいた。それが目的だろ。壊れてても文句言うなよ。……火の番を代わってくれ。俺はもうくたくただ」

 だんだんと暖かくなっていく背中に、沈黙だけが投げられる。炎の灯りが揺れる遺跡の壁をじっと見つめながら、俺はどうやら自分がこの旅を当分続けるつもりでいるらしいことを悟り、ため息とともに目を閉じた。

「ありがとう、ハート」

 ぱち、と暖かな音で小枝が爆ぜる。今更だろう、と心の中だけで返しながら、ゆっくりと眠りを手繰り寄せる。次に目を開けたときに見えるものが、広大で美しい星空ではなく、埃っぽい遺跡の壁であろうということに、今日だけは安堵を覚えた。

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