ベッドの上、オブリビオンの空の下

街酒場にて、もつれない痴情に関する討論


 彼は時計仕掛けの装置のように時間には正確だった。引き受けた仕事は必ず期日までに片付けたし、あとで落ち合おうと言う相手にはそれがいったい何時間後なのかをわざわざ尋ねて確認した。そして街の宿に泊まれば、翌朝示しあった時間には必ず身支度を整えて現れた。つまり俺が言いたいのは、この街を発つと決めた早朝に彼が宿の外に姿を現さないことは、部屋の様子を見に行こうと思うには十分な理由だったのだ。

 昨晩夕食後にアイツが引っ込んでいったはずの部屋に向かった俺は、ちょうどそこだと思った部屋のドアからダンマーの女が出てくるところに出くわした。俺の姿を見ると、長い黒髪の彼女は赤い目をさっと逸らし、階段を急ぎ足で降りていく。すれ違ってから気づいたが、昨晩食事をした店で給仕をしていたダンマーだ。食事を運んできた彼女に、アイツはいつもの真面目な顔で礼を言ったあと、綺麗な目ですね、と彼女の顔をじっと見て言った。彼にとっては何の意図もないのだから呆れたヤツだ。

 さて舷を間違えたかと引き返しかけて、それにしてもなぜこの街の人間がわざわざ宿にと思っていると、ダンマーの女が出てきたドアがもう一度開き、中からぬっと背の高い人影が覗いた。くしゃくしゃ長い銀色の髪。それを大きな手がかき上げると、あいだから見慣れた顔が気だるそうに覗いた。

「ああ、ハート。すみません、寝坊をしてしまって……少し待ってもらえます?」

 カーテンを閉じたままの薄暗い部屋で、彼はほとんど服を着ていなかった。いつもきっちり結んでいる髪が、だらしないウェーブを描いて長い指に絡んでいる。裸の胸に刻まれた大きな傷跡を隠しもせずに立っている彼の姿に、言葉がすぐに出てこない。

「あんた……なんで……そんな、」

「なんでと聞かれると……その、昨晩寝るのが遅くなってしまって。つまり……ああ、彼女とすれ違いませんでした? 眠ろうとしていたら彼女がやってきて、それから……」

「待て、それ以上言うな。いいから早く支度しろ!」

 声を大きくして遮ると、彼はすまなそうな顔で首を竦めて部屋に引っ込んでいった。

 どの街に行っても、同じような事態が起こっているとはわかっていた。認めるのは癪だが、コイツは人の関心を引きやすい。背が高くて顔がいいのは理由としては当然だし、彼の率直でいながら人を寄せ付けない涼しげな態度は、ついその温度をもう一度確かめたくなるような不思議な予感を覚えさせた。触れたら冷たさを感じそうな色の瞳にじっと見つめられて、その目がきれいだとか、あなたの考え方は興味深いだとか、名前が素敵だとか、そんな言葉をかけられると、誰でも自分が特別な存在であるかのような気にさせられるだろう。

 その日の夜、初めて足を運んだ街で、俺たちは久々に酒を酌み交わした。砂漠の旅は移動だけが長く、退屈で、それくらいしかすることもなかった。今日の店の給仕係はしわくちゃの老カジートで、俺は安堵と酔いに背中を押されて彼に尋ねた。

「あんた、女に刺されたことないのか?」

 彼と飲む酒はさほどうまいわけではない。コイツは酔っても愉快な男になるわけではないし、こちらが気持ちよく話していても平気で舟をこぎ始めるような男だ。けれどお互いに程よく舌の滑りが良くなる頃合いはだいたい同じで、そんなときの彼には少しだけ親しみを感じられた。

「刺されたこと? 嫌になるほどありますよ。今日だって、あの山賊の女性が僕に向けた短剣を見ました? 彼女、クモに突き刺したばかりのそれを……」

「そうじゃない、なんというか……人間関係がこじれたことがないのかってのを聞いてる」

 ああ、と同じ顔で返して、彼はいつもより少し大雑把に結ばれた髪を揺らして首を傾げた。

「ないですね、女性は」

「『女性は』?」

「ええ、男性なら一度。僕を殺して自分も死ぬと言って、腹を刺してきた人が。血まみれになりながら彼を止めましたよ。あれは大変だった……それ以来気を付けるようにしてます。つまり、長い付き合いを期待する人は避けるように」

 何気ない口調でそう言うと、彼は店の隅でリュートを弾いている吟遊詩人の男をじっと見て、いい声ですね、なんて呑気なことを呟いた。俺は手にした酒を喉に流し込んで、ようやく言葉を取り戻して言った。

「本当に節操がないな。こう、決まった相手はいないのか? シティで待ってる恋人とか、それか……なんつうんだ。想いを寄せてる相手というか」

 テーブルを挟んで酒を飲んでいる緑色の目のアルトマーは、気取った仕草で肩を竦めた。

「『想いを寄せている』……ハート。前から思っていましたが、あなたは意外とロマンチストですし、詩人ですね。質問に答えるとしたら、まあそんな感じの人はいます」

 期待していなかった答えを得て、思わず俺は身を乗り出した。俺は気が大きくなっていて、彼もいつもより少し饒舌になっていた。すかさずテーブルに肘をついて、小声で尋ねる。

「おい、どんなヤツだ。シティにいるのか?」

「シティにいると言えばいますし、いないと言えばいない。それにあなたが思うような関係じゃありません。一方的な感情です」

「じゃ、あんたはソイツに気持ちを伝えたことがないのか?」

 このすかした男が口説いて断るヤツなんかいないだろうと考えての言葉だった。しかし彼は難問にぶち当たった顔をして、遥か遠い昔のことを思い出すように目を細めた。その緑色の瞳の中に、底の見えない空洞が宿る。

「……伝えるべき感情で、伝えるべき相手だということを証明するために、僕は……」

 言いかけてから顔を逸らして、彼はバラードを歌う吟遊詩人の男をじっと眺めた。緩く首を振って諦めると、彼は再び酒を口にして肩を竦めた。

「うっかり伝えてしまったことはあります」

「ほう、なんて?」

「『愛している』と」

「……それで、ソイツは」

「何も。でもそれで僕は満足しました。彼とあんなふうに過ごす時間はきっともうないでしょうから、今思えばそれだけで幸せです」

「待て、『彼』だって?」

「……ハート、今日は質問が多すぎる。これ以上聞かないでください。ちょっと複雑なんです、それこそ人に知られたら刺されるどころじゃ済まなくなる」

「聞かないさ。シティのヤツなら俺が知ってるはずもない。けど、あんたにも口説き落とせないヤツがいるのは驚きだな」

 そう告げると、彼は甘ったるい旋律のバラードを歌い終えた吟遊詩人から目を離して、俺の顔をまじまじと見た。

「ハート。念のため言っておきますが、僕から誘ってるわけじゃないんですよ。なぜかいつも誰かが部屋を訪ねてきて、それで」

「わかってるよ、嫌味なヤツだな。……でも、全くそういうことに関心がないわけじゃないだろ。そのシティのヤツだったら、あんたも部屋で大人しく待ってはいないはずだ。……おい、そんな顔すんなよ。普通そうだろ、いくらあんたでもそうじゃないとは言わせないからな」

 眉を顰めた彼に言ってから、俺はようやく「普通」がことごとく通じないヤツを相手にしていることを思い出した。彼は酒を置いてゆるく首を振りながら、テーブルを挟んで俺の顔の前に指を立てて見せた。

「いえ、僕は言いますよ、『そうじゃない』と。僕にとってその人と何をするかは問題じゃないんです。その人と時間を共にするなら、何をするのも同じだけの喜びを感じると思います。それがベッドの上だろうとオブリビオンの空の下であろうと、彼と一緒にいられるならこの上なく幸せなんです」

 彼の澄んだ声が、リュートの音が消えた店に響いた。一瞬、賑やかな店内がしんと静まり返る。しかし真剣な色の透き通った目は、俺をじっと見たあと、ぱちぱちと何度か瞬きをしてテーブルの上に伏せられた。再びざわめきの戻った店内で、彼は小さく唸り声をあげてから、俺の顔を指していたでかい手を広げて言った。

「……今のはちょっと極端すぎました。彼のことになるといつもムキになってしまって……当然、ベッドの上の方がいいに決まってます。いえ、でも待って。僕から言っておいてなんですが、彼に関してはそんなことを考えてるわけじゃないんです。これは本当です」

 手のひらを向けて動揺した様子を見せる彼がめずらしく、もうしばらく茶化してやろうかと思ったところで、二人で挟んだ小さなテーブルのすぐ傍に人影が立った。老カジートが追加の注文を取りに来たのかと顔を上げると、器用そうな手から下がったリュートが目に入った。

「『ベッドの上だろうとオブリビオンの空の下であろうと』……続きはなんだっけ? 同業者かと思ったけど、そうは見えないな」

 隣のテーブルから椅子を引き寄せて遠慮なく割って入った吟遊詩人のボズマーは、長い耳の裏をこちらに向けて、ヤツの方へぐいと身体を向けた。やれやれと肩を竦めた俺に向けて軽く眉を上げると、彼は両手でこちらを示して返した。

「いえ、詩人は彼の方なんです。僕は思ったことしか言えないタイプで……」

「ますます興味が湧いたな。じゃ、君の率直な感想を聞かせてよ。僕の歌はどうだった? 聞いてたはずだ、さっき目が合った」

 彼は自分を見つめているボズマーの男を、あの冷たい宝石のような目でじっと見つめてこう言った。

「失礼、目が合ったのは気づかなかった。でも素敵な歌でした。あなたはとても魅力的な声をしてる」

 かまどの火が照らすボズマーの男の横顔が、明るい動揺にほころぶ。俺はもう一度ため息をついて、ちょうど底が見えたゴブレットをテーブルに置き、相変わらずいつもの真面目くさった顔でいるソイツに言ってやった。

「明日は部屋まで迎えにいかないぞ。時間厳守だ」

 立ち上がると、彼が何か言い訳をしたそうに背を伸ばすのがわかった。けれど彼の前に座っているボズマーはもうそこを動こうとする気配もない。彼を置いてテーブルを離れながら、ぼんやりと考える。ベッドとオブリビオンが一緒だって? もしアイツの言う「彼」に会う機会があったら、そんな馬鹿げたことを言っていたと真っ先に聞かせなければいけない。どんなヤツだか知らないが、驚くに違いない。普通だったらそうだ。

「おい、ばあさん。会計はあのおかしなアルトマーに言ってくれ。チップを上乗せしていいぞ」

 酔いに任せて大きな声で告げると、ドアの前で客のゴブレットが空になるのを待っている鋭い目の老カジートが、へへ、としわがれた声で笑った。


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