人の証明(上)

ソーサ・シルと「彼」の始まりについて

*ESO英語版をプレイしているため、口調や言葉の定義に公式と異なるものがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

* 彼→ソーサ・シルの感情描写はありますが、直接的な描写はありません。


  枝から離れた林檎が重力に従って地面に落ちていく。この世界はそうした些細で単純な因果が縦横に織られたものであると、私は長い時間をかけて理解していた。しかしどれほど時間をかけても、一つ一つの始まりと終わりを正確に見分けることは困難で、私はひとつの果実が枝を離れるその時間でさえも読み誤ることがあった。彼の場合がそうだった。

「ディヴァイス・ファーから手紙が。珍しいので急ぎかと思い、失礼ですが開封を」

 久々に聖堂に戻った私に、ルシアーナがそう言って一枚の紙を差し出した。昔と変わらず達者な彼の筆跡で埋められた魔術用の上質な紙は、少し古ぼけて色褪せている。綴られた文字を読み始めた私にルシアーナは肩を竦めて言った。

「急ぎではなかったのですが……いずれにしても届いてからそれなりに時間は過ぎてます。いつものことですが」

 古い友人からの手紙は、彼らしい言い回しで始まっていた。「君がこれを読むのは一週間後かもしれないし数百年後かもしれないが、私はそれがいつであろうと気にはしないし、君がこれを読まなくても構わないと思っている」。そのあとに続くのは、彼の弟子の一人であるアルトマーの青年を私に「譲る」という内容だった。

 彼の下で研究の手伝いをしていたというその弟子を手放そうと考えた理由について、彼は「なんでもかんでも私に質問し、私が答えないうちから自分の仮説を語り、結論が出るまで議論に付き合わせる」せいだと書いていた。しかしそれは本当の理由ではないようだった。私への皮肉と、彼なりの親しみにあふれた手紙の最後の方になって、彼はその青年の研究対象について短く触れていた。それが彼に筆を取らせた理由であることは疑いようがなかった。

「手紙が届いたのは?」

「あなたが前回ここを離れて二年後だったので、今から十二年……いえ、十三年前です。それを持った彼が――ハイエルフが現れたんです。ファーはその手紙をどうにかしてあなたに届けろとだけ命じたそうで、自力でここまで来たと。追い返そうかと思いましたが、内容を読んであなたを待つことに。……彼も十三年間それなりに忙しくしてましたから、待ちくたびれたというわけでもないでしょう」

 私が頷いて手紙を返すと、受け取ったルシアーナはそれを手早く丸め、無造作に機械の鎧の隙間に差し込みながら付け加えた。

「いい青年ですよ。研究のことになると気難しくなりますが、そんな人たちは見慣れてますから。……手紙には返事を?」

「その必要はないだろう。ディヴァイスも待ってはいないはずだ」

 彼のことになると露骨に嫌な顔になるルシアーナは、やはり眉を顰めながら、そうでしょうねと返した。彼女はすぐに表情を改めて、そのアルトマーの青年についての説明を続けた。

「ファーが匙を投げるほどかと身構えましたが、拍子抜けするくらいの好青年です。ハイエルフにしてはめずらしく謙虚ですし、愛想がいい方ではないですが、街にもかなり貢献を。農園のエネルギー問題には力を入れていたんですが、ナリルと衝突してからは別の部分で協力してくれています。……ただ、一つ問題が」

 橙色の照明の下で回転するシーケンス・スプールのささやかな音を耳に、私は彼女の言葉の続きを待った。言いにくそうに首に手をやりながら、ルシアーナはため息交じりに言った。

「……彼はここへ着いた時から、あなたへの信仰心はないと公言を。そのことで一部の使徒とは今もよく揉めています。ここにも余程のことがなければ近付きません。ずっと研究室にいます」

 私は驚かなかった。それは彼の研究分野からすれば当然だった。満足を覚えて頷いた私に、ルシアーナは急いで言葉を足した。

「それを進んで口にするわけではないですし、もちろんあなたを冒涜するようなことは言いません。少なくとも、十三年間私が追い出さなかった人物です」

 彼女の口調と視線からは、微かな、しかし確かな期待が感じられた。その様子に、私はこの因果がなるべく簡潔に、そして容易くその役目を終えることを願いながら彼女に告げた。

「君の忍耐に感謝しよう。彼の研究室はどこに?」


 かつて他の研究に使われたきり打ち捨てられていた研究室に、彼はいた。私は数百年のあいだそこへ足を運んでいなかったが、研究室は私の知るかつての姿よりも随分と物に溢れ、しかし明るかった。そして驚いたことに、部屋の中心に作られた簡素なプランターでは、一本の細い林檎の木が果実を実らせていた。

 私が訪ねたとき、彼はこちらに背中を向け、ちょうどその木に実った果実に手を伸ばすところだった。背の高い彼が容易にその実を摘み取ると、金属の板と無骨な鉄岩で出来た研究室に、若い葉の擦れる柔らかな音が響いた。人工的な灯りが作り出す繊細な木の影に人型のそれが重なると、気づいた彼がゆっくりと振り返った。私を捉えた大きな目は、この街にはない、芽生えたばかりの新緑のような色をしていた。

 私は手の中の林檎を取り落さないようにと彼に伝えることも出来た。しかしそうしなかったのは、例え私がその言葉を告げたとしても、彼がそれを取り落とすであろうことがわかっていたからだった。彼の手をすり抜けた赤い果実は、私が創り出したこの街の重力に忠実に従い、床へと向かった。重く湿った音を立てて金属の床にぶつかった果実は、小さく跳ねて私の足元へと転がった。

「ああ、どうか……」

 囁くように低く呟きながら、彼がゆっくりと身体をこちらへ向ける。私は彼がもはやその行方を気にも留めていない丸い果実を見つめ、その傷ついた肌が濡れていることに気付いた。彼の代わりに身をかがめ、機械の手を伸ばす。彼の視線を浴びながら拾い上げた果実は、想像よりも軽く、しかし傲慢な程の生命の気配に満ちていた。

 瑞々しい香りに濡れたそれを手にしたまま、私は研究室をゆっくりと見渡した。林檎の木の周囲には、プランターへ供給されるエネルギーを制御している巨大な装置と、電極を介してそこへ繋がっている無数の繊細な装置や魂石が並んだ作業机が据えられている。空いた場所に一緒くたに積み上げられた紙と金属の本の数からは、彼が随分と長い研究の末にこの結果にたどり着いたことが伺えた。十三年という歳月が定命の者にとってどれだけの時間であるかを思い出そうとしながら、私は彼に控えめに声をかけた。

「私が遅かったのか、それとも君が早かったのか、その議論を君が望まないといいんだが。ファーは気にはしないだろうが、君がどうかは私にはわからない。この時間が君にとって無駄にならなかったことを祈ろう」

 彼は先ほどまで林檎を握っていた手を胸に当て、ローブの胸元を強く握りしめた。そしてゆっくりと顔を伏せて目を閉じると、聞こえないくらいの声で囁いた。

「……ついに!」

 彼の答えにやはり謝罪の言葉を告げようとする私を手のひらで制すると、彼は顔を上げ、懇願するように、しかし淡々とした口調で切り出した。

「どうか……あと三十秒だけ待ってもらえませんか。あまりに急で……いえ、十三年も時間をもらったのに贅沢な話だとは思うんですが。まずこの実験を止めないと。やりすぎるとシーケンス・スプールが感電して全部停止してしまうんです。一度やりました。ところでスプールは素晴らしい発明ですね。僕はこの囁くような冷たい音が好きなんです、これがあるとよく眠れます。まあ、実際なくてもよく眠れるんですが。でもお伝えしようと思ってたんです。念のためです。……もしかして、僕はあなたに林檎を拾わせてしまいました? ああ、参ったな……ちょうど三十秒経ちました。感謝します」

 彼はそこまでを一息に告げると、すぐそばの巨大な装置のレバーを下げて、実験を中断させた。緩やかに速度を落とす歯車の音に呼吸を合わせ、もう一度目を閉じてじっと押し黙ってから、彼はゆっくりと顔を上げた。そして私の目をまっすぐに見ると、まるで何事もなかったかのように冷静な口調で、彼は自分の名前を名乗った。モーター音を響かせていた機械が、眠りにつくように静まり返る。彼はまだ胸を押さえながら、丁寧に一つにまとめた銀色の髪を揺らして言った。

「あなたにお会いできて光栄です、ソーサ・シル」

 機械と同じように静かになった彼の若々しい色の瞳を見つめ返し、私は頷いた。

「かの古い友人が私の下へ人を送るのはこれが初めてだ。彼が判断を誤るとは思わない。君を心から歓迎しよう」

「ありがたいお言葉です」

 すでに彼は落ち着き払っていて、先ほどの態度が嘘のように冷静だった。私の言葉を待っているその新緑の瞳に、私は早速尋ねた。

「ファーが手紙の中で君の研究領域について言及を。この部屋がその答えなのだろうが、君の言葉を聞いた方がいいだろう。ここでは何を、何のために?」

 私の質問に答えようとしてから、彼はようやく私が握ったままの小さな果実を思い出したようだった。眩しそうに目を細めて、彼は胸に当てていた手をこちらに差し出した。

「……失礼。感謝します」

 短くそう言って、彼は私の手から果実を受け取ると、果汁に濡れた私の手を見つめた。彼を促すつもりで手を開くと、彼ははっとして再び顔を上げた。

「……エネルギー全般のことを扱っています。でもそれは結果なんです。僕の研究領域は、神の力、あるいは神そのものに関することです」

 花を摘み取るように慎重に言葉を選び、彼はそれが何のための研究であるかは口にしなかった。そして私もそれを確認することはしなかった。彼の説明はファーが手紙の中で言及した内容とほぼ同じだったが、手紙には一言だけ師としての見解が添えられていた。「つまり君に関することなら彼はなんでも喜んでやるだろう」。彼はこの言葉を私への皮肉として書いたわけではないようだった。


 彼は私の実験に、非常に熱心に、そして実践的に協力した。特に彼は街を生かすためのエネルギー炉である「泉」があるアトリエでの実験に大きな関心を寄せた。私が不在のあいだに彼が試作していたエネルギー計測のための装置は、私が彼の指示どおりに触れただけで九回にわたって壊れた。彼はそのたびに、残念そうな顔もせず、その結果を予測していたことを口にし、装置を一から作り直した。修理を提案した私に、彼は正確に直すことよりも正確に壊すことの方が得意なのだと説明した。

 ある日、私は彼の熱意に着想を得て、私の力を形を持った物質に変換することを提案した。泉に貯めたエネルギーは私の力を魔力の形に変換したものであり、安定はしているものの、人為的に作られた装置で測定するにはあまりに強力すぎた。

「というと、エネルギーを固体にするということですか?」

「それも一つの手だろう。君の見解は」

「そうですね……エネルギーをなんらかの物体に閉じ込めることで固体化したものはすでに多く存在します。魂石もある意味そうですし、デイドラの魔具もそうです。前の師がそんなものを集めていたのでよく実験をしましたが、多くはエネルギーを閉じ込めている器というだけで、エネルギーそのものではない。それらしい結果を得られたことは一度もありませんでした」

 泉の炉の中で流動するエネルギーを見つめながら、彼は真剣に考えていた。彼は非常に率直で、私にも臆せず意見を述べ、時に反論をすることもあった。それは私にとっても都合のいいことだった。

「確かにそうだろう。保存する目的で作られた固体を使った実験は難しい。そして力そのものを固体にするのは、恐らく危険を伴う」

「ええ、触れただけで寿命が五千年くらい伸びるか、一秒と立たずに魂ごと焼き消えるかどちらかでしょうね。……となると、液体のことを?」

「というより、水を媒介する方法ということになるが。君のその装置は、おそらく液体が一番計測に向いているだろう。試す価値はある」

 二つの極でエネルギーの流れる速度を測るその装置を示しての提案に、彼はしばらく考え、独り言のように見解を口にした。

「液体は……状態としては固体よりは不安定になる。でも空気に触れなければある程度は……。農園の水を使っても?」

「勿論だ。必要ならば」

 私の了承に、彼は何度か頷いて実験の計画を変更する準備に取り掛かろうとした。しかし彼は何かを言いかけたあと、泉の炉の中で渦巻くエネルギーの流れをじっと見つめ、そして振り返った。背の高い彼が、私とあまり変わらない目線から、炉を見るのと同じ観察的な仕草で私の目を眺める。彼は大抵私をその眼差しで捉えた。それは遠慮がなく客観的な、実験対象を見澄ます研究者の視線だった。彼は幾度か瞬きをしたあと、ゆっくりと首を振った。

「……いえ、やめておきましょう。一度水と結びつけば、エネルギーだけを取り出すことが難しくなる。出来上がったものはどこかに保管しなければいけません。液体は一度の使用量を制限できる固体と違って、簡単に濃度の調整ができる。気化させれば広範囲に影響を及ぼすこともできます。万一があってここから持ち出されることがあれば、胡乱な魔術や悪事に使われる可能性が。僕はそれを持っていたくありません。僕のための提案なら、他の方法を考えます。もしあなたがそうしたいと言うのであれば、考え直してください」

 そこまで言うと、彼は私の意向を確認するために沈黙した。彼を試すつもりはなかったが、私は彼の出した結論に満足していた。

 彼はいつもこうだった。私との実験の中で、彼は可否の判断ではなく、善悪の判断を採用した。魔力で制御した炉の放つ冷たい轟音が響くアトリエで、彼は自らの研究対象であるはずの力を目前にしても、少しも唆されず、その瞳はすでに先ほどまでの熱意を忘れたかのように落ち着いていた。

「君の考察は正しいだろう。私は君を信頼している。だが信頼は鍵のかかった扉と同じだ。鍵がかかることは、鍵があれば開くことを意味する」

「ええ、そして鍵がどれだけ複雑で頑丈だとしても、扉が脆ければ簡単に破ることが出来ます。残念ながら僕は体系だった戦闘の訓練はしてないんです」

 肩を竦めてそう言った彼に、私は頷いた。

「いいだろう。君の忠告はもっともだ。他の方法を考えよう」

「ありがとうございます」

 彼はあっさりと頷き、再び轟音を立てる炉を見上げた。いつもあまり表情の変わらない彼の顔を、炉で渦巻くエネルギーの青が照らす。彼の瞳に青い炎が燃えるのを眺めながら、私は初めて彼の姿勢について言及することにした。

「その天秤だ。いつも強靭で、決して傾くことがない」

 私の言葉に、彼は振り返って眉を上げた。

「天秤?」

「激しい好奇心に釣り合うだけの強い倫理観だ。それを持てる研究者は多くない。そして多くがその欠落のために失敗する。君はそれを手放してはいけない」

 彼はじっとこちらを見たあと、淡々とした調子で返した。

「好奇心と倫理観というあなたの評価に相応しいのか、自分ではわかりません。単に僕の目的にはどちらも必要というだけです」

 彼はそう答えたあと、私が九回壊し、彼が九回作り直した実験装置の調整を始めた。複雑な回路と大袈裟な電極で作られたそれを熱心に操作する彼に、私は尋ねた。

「君の研究の真の目的は? 君が得ようとする知識については理解しているつもりだが、それは君をどこに招くものだ」

 彼は私の質問に顔を上げて、装置の感度を調整する手を止めた。その新緑のような色の瞳を躊躇なく私に向けたまま、彼は言葉を選べずにいるようだった。私は彼を助けるために再び口を開いた。

「我々の研究は創発的な関係にある。同じ洞窟で出口を探す冒険者と同じだ。私は出口を見つけられさえすれば、洞窟から出たあとに君がどこへ行こうと止めるつもりはない。しかしどうやら君は単純にここから出たいわけではないようだからな。この洞窟に探し物があるなら、出口にたどり着く前にそれを探さねばなるまい」

 彼は目を伏せて、口元に手をやりながらしばらく考えていた。次に彼が顔を上げると、その瞳は炉の中で流転する力の激流のように、爛々と光っていた。

「その例え話を借りるとすれば、僕の目的は洞窟から出ることではありません。僕が出口を探すのは、外から差し込む光で見るべきものをはっきりと見るためなんです。つまり、あなたのことです」

 彼の瞳は明るい色に燃えていた。私が促すと、彼はその新緑の炎を燃やしたまま、しかしいつもと同じようにあっさりとした口調で切り出した。

「僕の研究の目的は、あなたから神の力を取り除くことです」

 泉の炉から、冷たい轟音が鳴り響いている。私は彼の答えを心の中で繰り返した。彼のいつも淡白で観察的な表情の向こうで、私を暴こうとする二つの澄んだ瞳が輝いていた。

 沈黙に、彼ははっとした顔をして目を閉じた。手のひらをこちらに向け、彼は押し殺すような声で切り出した。

「ああ……待って。訂正させてください、今のはよくなかった。ここへファクトタムを呼んだりしてませんよね? 取り除くというより、あなたから神の力を切り離す……必ずしも物理的にじゃないんです。つまり僕は、神の力を持たない、人としてのあなたの姿を見たいんです」

 口調の割に彼は落ち着いていた。私が沈黙で先を促すと、彼はゆっくりと言葉を選びながら説明した。

「あなたが好奇心と倫理観と呼んだ性質は、僕にとっては相反するものではありません。好奇心は、神の力を定義することに向かうものです。あなたが持つ力は一体なんなのか、例えばそれは取り出せるものなのか、どれくらいのエネルギーなのか。それがわからない限りは、あなたはただの『強大な力を持つ謎めいた存在』なんです。……まあ、それがあなたを神たらしめている要素の一つなわけですが」

 両腕を広げて大げさに表現した彼に、私は控えめに返した。

「私にとっては同意が難しい解釈だが、続きを」

「はい。倫理観は、あなたが真の意味で神ではないことを保証するためのものです。倫理は神に属するものではありません。人に属するものです。民はあなたを人に近い存在として崇めるからこそ、あなたに倫理を求めます」

 彼は数千回も繰り返した歌を口ずさむような何気なさで、私に関する考えを述べた。それは私にとっては非常に新鮮な体験だった。彼は相手が私であろうとそうでなかろうと、同じような調子で話すだろうと思えた。その流暢さには一つの確信が感じられた。

「あなたが倫理から外れれば、あなたは気紛れで残酷なデイドラ公やなにかと同じ存在になります。だから僕はあなたに関することで倫理に欠けた選択はできません。指導者の役割と神の役割は異なるものですから。……まあ本音を言えば、単純にあなた自身に危険が及ぶ可能性を生むようなことをしたくないだけですが」

 彼はここまで一息に言って頷いたあと、額を手で押さえて謝罪の言葉を口にした。

「……ごめんなさい、また夢中に。よく前の師には遮られて注意されていたんですが、あなたが聞いてくださるので、つい」

「ここでは率直さは慎むべきものではない。興味深い話題だ。だがそれは何のための証明だ? 我々が人であることの証明が何のためになると?」

「『我々』?」

 私の言葉を繰り返して、彼は額を押さえたまま沈黙した。顔を曇らせてしばらく首を傾げると、彼はやがて、ああ、と絶望の表情で天を仰ぎ、珍しく語調を強めて言った。

「待ってください。もしかしてあなたは今の今まで、僕の興味が例の『トリビュナル』に向いていると? だとしたら大きな誤解です。でも……ああ、参ったな! あなたはずっとそう思って僕の隣にいたんですか? 先に説明しておけば!……つまり、僕が興味があるのは『あなたがた』じゃない、『あなた』だけなんです。ソーサ・シル」

 彼の瞳はほとんど憤怒のような色に燃えていた。その若木のような十本の指全てを張り詰めさせて私に向け、私の目を見つめたまま、彼は念を押すように言った。

「僕はあなただけを見ているんです」

 研究対象へ向けられた言葉であるとわかっていても、彼のその澄んだ熱意は私を躊躇させるには充分だった。私は彼を落ち着かせるために率直な言葉を選んだ。

「誤解を謝罪しよう。だが君の研究内容に照らせば、『神の力を持つ人』、あるいは……私の仲間に言わせると『人の姿を持つ神』という意味で、我々三人は同じ存在だ」

「ええ、そうかもしれません。でも僕にとっては全然違うんです。あなたを他の二人と同じにするのは我慢ができません。違いについてはあなたが一番よく知っているはずです。僕はそれをこの街とあなた自身の言葉から学びました。説明したくもありません」

 早口でそう告げてから軽く目を閉じ、彼は怒りを、あるいは不愉快を鎮めようとしているようだった。広い額に皺を寄せて一度ため息をつくと、彼はいつもの何気ない軽快な口調に戻って言った。

「あなたが人だということの証明は何のためのものかと聞きましたね。何のため? 僕のためです。僕は例えその証明に成功したとしても、それを広める気はありません。本に書いて残すなんてもってのほかです。誰にも知られたくないんです。これは学術的な研究じゃない、僕の個人的な研究なんです」

 私は彼の真意をまだ理解できずにいた。そして実際それを理解する必要はなかった。しかし私は、そびえたつ火山の岩肌に小さな宝石の煌めきを見つけたような、ささやかな期待を覚えさせられていた。

「では君はなぜその証明を求める? それは君にどんな満足をもたらすものだ」

 私の質問に、彼は微かに表情を緩めた。それは常に何に関しても明確な態度を示す彼にはめずらしい表情だった。悲しみのような喜びのような曖昧な微笑みを浮かべて、彼はそれでも変わらず単調に答えた。

「満足はしません。恐らく足りないことを実感するだけでしょう。……本当に続きを?」

 彼は両手を広げて私に尋ねた。質問というよりは許しを得るための言葉に聞こえ、私は頷いて彼を促した。彼は私の中に私でさえも知り得ない何かを見出そうとするように、その新緑の目を眇めた。

「その証明が済んだら、僕はあなたに愛していると伝えるんです。神としてではなく、人としてのあなたを愛していると。それが僕の本当の目的です」

 彼の口から出た言葉を、私は思わず尋ね返しそうになった。エネルギーを危険なく循環させるために途方もなく広く作られた研究室には、冷たい轟音が鳴り響いている。飾り気のない武骨な建築物の内部で、私は彼の言葉をどう受け止めるべきか躊躇っていた。私を見る彼の視線からは、やはり研究対象としての興味関心以上に強い感情は感じられないように思えた。黙っている私に、彼は同じ調子で続けた。

「神への愛と人への愛は、根本的に性質も名前も異なるものです。僕はこれが神への愛ではないことを証明したい。それだけです。……これ以上『なぜ』や『何のために』を聞くのはお勧めしません。あなただって人を愛したことがないわけではないはずです、どうなるかわかりますよね? 僕は丸三日かけて、あなたに関する思いをあなたに話さなければいけなくなります。もちろん聞きたければ話しますよ、いつでも」

 相変わらず淡々とした口調だったが、その言葉は彼が口にした言葉への私の認識が誤りではないことを示していた。再び沈黙が訪れると、彼は申し訳なさそうに小さな声で付け加えた。

「力を手に入れたことで、こんなことからは逃れられると思っていました? それなら……まあ、そうじゃなかったということです。お気の毒ですが」

 彼が一向にこの話題を終えようとしないので、私は彼の目を見て言った。

「私はこの力を理由に何かを退けようと思ったことはない。自身を神だと認めたこともない。だがそれは君にとっては意味のない言葉なのだろう。君が望むなら、私は君の研究を止めはしない。求める答えが手に入るかはわからないが」

「ええ、もちろんです。これは僕の問題なんです。でも……あなたのご自身に関する見解はいつでも興味深いですし、参考になります。感謝します」

 彼は私に向かって、私についての話を、まるでこれから行う実験の予測を語るように話した。ようやくこの話が終着点に辿り着いたと思い実験の話に戻ろうとすると、腕を組んでまだ何かを考えていた彼が再び口を開いた。

「この際なので続けていいですか? 僕は『ファーザー・オブ・ミステリー』だとか『ミステリー・オブ・モロウィンド』だとかいうあなたの呼び名が好きじゃないんです。いえ、というか嫌ってます。『ミステリー』じゃ困るんですよ! 僕はあなたと初めて会話を交わした日に、あなたに関する本や使徒たちが語る『謎めいた』あなたの姿を、全部僕自身の中で壊しました。そして一から作り直しているんです、今この時も。あなたが僕の前にいるのに、謎を覚えるべきじゃないんです。……というかそもそも、なぜあなたに新しい呼び名が必要なのか、僕にはわかりません。『卿』も『主』も『神』も、正直口にしたくない。少なくともあなたの前では」

 口元に手を当ててひとしきり淡々と述べたあと、彼は大きく息を吸い、それをまたゆっくりと吐き出した。沈黙の中で瞬きをすると、彼は不意に顔を上げて私を見た。

「シルとお呼びしても?」

 彼の澄んだ瞳は、変わらず涼しげな色をしていた。その口調は私に農園の水を使う許可を求めたときと同じように、率直で素朴で、その言葉以上の意図を感じさせないものだった。

「君がそうしたいのなら」

「ありがとうございます、シル。感謝します」

 彼は胸に手を当ててから、すぐに顔を上げ、再び目の前の装置を調整しはじめた。その目まぐるしく、しかし時計仕掛けのように狂いのない彼の反応は、少なからず興味を覚えさせるものだった。彼は装置のダイヤルを回しながら、何気ない口調で言った。

「安心してください。先ほどの話は誰かに話すつもりはありません。ああ、でも前の師は気づいていたと思います。あなたもご存知でしょうが、彼は本当に鋭いので。それが目的で彼の下にやってきたと思われていたかもしれません。まあ、それも一つの理由ではありますが」

「……君のその関心はいつから始まっている? 何かきっかけが?」

 想像よりも遥か昔に話が遡ったことで、思わず再び質問を口にする。彼は細い針を慎重に目盛りに合わせながら、視線も上げずに返した。

「さあ、いつでしょう。どこから始まっていたのか、僕にもよくわからないんです。サマーセットに生まれて、いつからかあなたのことを知っていて、そしてあなたに惹かれて、気がついた時にはここにいて、この証明にのめり込んでいました。自然とです」

 彼の若木のようなしなやかな指が、迷いなく正確に、機械のわずかな歪みを直していく。私は彼の答えを聞くまで、自分がいつかと同じ質問を口にしていたことに気づいていなかった。物事はすべて行動と結果の繰り返しで成り立っている。正しいはずのその言葉を、私は口にできずにいた。

 黙っている私を不思議に思ってか、彼が顔を上げた。その新緑の瞳は、すべての創造物を――人の造った物も神の創った物もすべてを、同じように見透かし、貫こうとする鋭さが宿っていた。

「すみません、かなり脱線を。あなたが僕を追い出さないといいんですが」

「心配はいらない。ここには出口は一つしかない」

「寛大さに感謝します。では、洞窟探検の続きを?」

 軽口を返すときでさえ、彼の表情は真剣そのものだった。寸分の狂いもなくかみ合った歯車のような態度は、その正確さゆえに、眺めているうちに逆方向への回転に錯覚するような、奇妙な矛盾を感じさせた。


 彼との実験がある程度の成果を上げると、私は再びコギタムに戻り、しばらくそこで自分の研究に取り掛かった。そしてそれもある程度の結論に達すると、私は新たな実験に着手するためにコギタムを出ることにした。実験は私一人では行えないものだった。

 彼の研究室を訪れたとき、彼は林檎の木の向こうにある錬金台に向かって作業に没頭していた。部屋の中心に植えられた木は、前回来たときよりもいくらかたくましくなり、そこには白い花がいくつも咲き誇っていた。

 部屋に漂う甘い香りを胸に入れて研究室を見回すと、木の成長以外にはあまり変化のない部屋で、まだ私に気づいていない彼は、シリンダーに入れた何かの液体に例の装置を使っているようだった。私がシリンダーに入っているその液体の濃い赤に気づくのと、彼が私の訪問に気づくのとは、ほとんど同時だった。

 彼は私の姿を認め、勢いよく立ち上がった。そのはずみに彼が腰かけていたスツールがけたたましい音を立てて転がり、その音で彼はまたびくりと身体を揺らした。彼は何かを言いかけたまま両手を彷徨わせ、すぐに諦めたように顔を覆った。錬金台の上に置かれたのは、明らかに生き物の、そして恐らくは人の血液が入ったシリンダーだった。

「ああ……待ってください。説明を」

 彼の背後に同じように赤黒い液体の入ったポーション用のガラス瓶が二本並んでいるのを認めて、私は彼の言葉に耳を貸すことにした。いずれも瓶の中身は底にわずかに残るほどしか量はなく、彼がその実験をすでに行った後であることがわかった。

「これはデイドラを呼ぶ儀式でも、死霊術の実験でもありません。確かにこれは血液です。人のものです。でもこれには理由が……というかまず、あなたはこれが何年ぶりの再会かわかってます? 九年ぶりです。正確に言うと、九年三か月と……いや、この話はやめましょう。とにかく、これはきちんとした手順で手に入れたものです。承諾を得て採血を。だから……でも、すみません、あなたには見られたくなかったんです」

 途中で顔を覆っていた手を降ろし、いつものように渾々と言葉を吐き出しながら、彼は相当に狼狽えていた。彼は話すあいだ一度も私の顔を見ず、代わりに私が身体の前で組んだ機械の手を見つめていた。

 私は単純に彼の実験に興味を持っていた。実際この部屋に闇の魔術の気配はなく、感じられるのは花の清楚な匂いだけだった。私が尋ねようとすると、彼はようやく顔を上げた。彼の瞳は、彼が私に教えただけの年月を経ても変わらず若葉のような澄んだ色をしており、そしてその鋭く無遠慮な視線も変わっていなかった。目が合うと、彼はほとんど無意識のような様子で口を開き、小さな声で囁いた。

「久しぶりですね、ソーサ・シル。僕は……またあなたに会えて嬉しいです。心から。あなたは本当に……いえ、」

 そこまで言うと、彼はゆっくりと項垂れた。顔色が悪いようだった。

「休息を。君の仮説と結果を聞くのは後にしよう」

「休息? あなたがここにいるのに? だいたい、後でって何十年後です? いや、これは良くない……すみません、朦朧としていて。血を抜きすぎたんです」

 額を軽く押さえながら、彼はそう答えた。よく見ると、ローブの袖口から覗いた手首に包帯のようなものが巻かれていた。

「昔から回復魔法が苦手なんです。破壊魔法はそれなりに扱えるんですが。壊すのが好きなんでしょうね。……すみませんが、座って話しても? よければあなたもかけてください。散らかってますが」

 長居をするつもりはなかったが、彼の悪意のない強引さに促されるまま金属製の椅子に腰かける。彼は転がったスツールを拾い上げて、そこへへたり込むように座った。

 身体を支えるために錬金台に肘をつき、二本の腕の隙間から私を見上げたまま、彼はしばらくぼうっとしていた。彼の背後に置かれている二本のガラス瓶を眺めると、底に残る液体と同じ色の膜が丸いガラスの内側を薄く濡らしていた。しばらく見ることがなかったその色を珍しく眺めていると、彼が私の顔を見つめたまま口を開いた。

「偶像崇拝には肯定的になれないんですが、街の中心にあるあなたの像だけは見ないわけにいかないので、通りかかると眺めてしまうんです。そうすると想像の中で――ああ、想像というか印象です、別に具体的にあなたと何かをする想像をしているわけじゃありません、念のため。これは本当です。……段々、頭の中であなたがあの姿になってしまうんです。荘厳で、偉大で……まさに『神々しい』姿に。一度は壊したはずのあなたの姿です。でもこうしてお会いすると、あなたはこの街にいる誰よりも寛容で、とても……素朴な存在です。少なくとも僕にとっては。……『素朴』なんてあなたの使徒たちに聞かれたら大変ですね。今のは忘れてください。というか、全部忘れてくれて結構です、独り言です。……だいぶ気分が良くなりました。実験の結果を聞きますか?」

 相変わらずあまり抑揚のない口調で一通り語ってから、彼は背筋を伸ばして実験台の器具を示した。シリンダーに入った血液から伸びた鉄線の先では、前の実験のときよりもいくらか小さく、そしてさらに繊細になった彼の実験装置が、針を弱く震わせていた。私が頷くと、彼は先ほどよりは軽快な調子で説明を始めた。

「力が肉体そのものに宿るのかどうかを調べようと思ったんです。力というのは、この場合魔力です。心臓や頭蓋骨のように強力なアーティファクトとして残るものはたくさんありますが、持ち主が生きているものはほとんどない。まず爪や髪は試しましたが、これは全然でした。……それで次に思いついたのが、これです」

 両手で示されたシリンダーには、赤黒い液体に二本の極が浸されている。彼の話と瓶の数を考えると、恐らく彼自身と、それから別の誰かの血液を使った比較を考えたのだろう。彼は私の想像をわかっている様子で頷き、実験の説明をした。

「まともに回復魔法も使えない僕の血液と、それから……ある高名な魔術師の血液の比較を」

「驚きだな。ファーがその依頼を引き受けるとは」

「……まあ、そういうことです。依頼というより取引です。ちなみにまだ借りは返せていません。無茶な条件を出すんです。意地が悪いんですよ、彼」

 ため息をついて立ち上がると、彼はシリンダーの液面を微かに震わせていた装置の電源を落とした。弱い振動に揺れていた装置の針が、力なく左端へ倒れる。

「サンプルが少ないので明確には結論付けられませんが、恐らく血液にも魔力は保てません。意図しなければですが。正直安心しました。もし意図せず魔力が保てるとしたら、国を滅ぼすほど強力なポーションがほぼ無限に作れるでしょうし、万一囚われてしまえば生きながら利用され続ける可能性もあります。考えたくありません」

 あっさりと諦めて、彼は実験道具を片付け始めた。抑揚に乏しい彼の表情からはその考えを読むことが難しかった。しかし彼がまだ実験の結論に行き着いていないということだけは確かだった。

「血液か。興味深いな。原始的だが、理論的には試す価値がある。私には思いつかなかった視点だ」

「高い買い物を無駄にしてしまいましたけれど。まあ、遠慮せず処分できるのでよかったですよ。もし魔力が宿っていたら、いざと言うときに飲むポーションとして持ち歩こうかと。……今のは冗談です、念のため」

 真顔でそう言い足しながら器具を洗うための精製水を準備し始めた彼に、私は用意していた言葉を告げた。

「君も知っているとおり、この力は魔力とは根底的に異なるものだ。作用は似ていても、性質は同じではない」

 彼は黙ったまま大きな水差しを洗い桶に傾けて、飛沫が跳ねるほどに勢いよく水を注いだ。沈黙を埋めるように水音が響く中で、彼は固い表情をしていた。決断を下さない彼を促すために、私は言葉を続けようとした。

「同じ結果になるとは限らない。試す価値はある」

「だめです」

 ほとんど遮るように、彼はきっぱりと一言で答えた。洗い桶が溢れそうになるまで水を入れ終わると、彼は顔を上げないまま目を閉じてため息をついた。

「……だから見られたくなかったんです。あなたは僕のためにそう言うだろうと。もともとはリーチのヴァンパイアの話を聞いて思いついたんです。あなたのことを前提に考えたわけではない。それは言わせてください。というか、」

 そこまで言うと、彼は洗い桶に浮かんでいるシリンダーから目を上げて、私を振り返って見た。

「その身体にも血が流れているんですね。あなたの口からそれを聞けただけで十分です。あなたの心臓が僕と同じように動いていて、僕と同じように血液を巡らせているという事実だけで、僕は満たされています。……それで、何か実験のお手伝いを?」

 この話題から逃れるように話を逸らした彼に、私はもう一度だけ機会を与えることにした。彼がこれまで下してきた判断からすれば、それは彼にとって必要な、そして危険のない実験のはずだった。

「血液は混合物だ。ゆえに長くはその性質をとどめられず、気化することもない。つまり以前君が言及したような危険は少ない。そして私はこの実験に興味がある。ここに障害はなく、我々には純粋な動機がある」

 私が話すあいだ、彼は硬い表情のまま私をじっと見つめていた。金属の桶の中でガラスの器具が触れ合う小さな音が漂う。彼はゆっくりと口を開くと、首を振って囁いた。

「……シル。なぜあなたは僕を試すんです? どうして僕を唆す必要が?」

「試してなどいない。君の天秤を傾けるものではないという事実を述べただけだ。だが君に不安が、或いは恐怖があるのなら、無理を言うものではない」

 彼は私の顔を見つめたまま迷っていた。私は彼の背後に空のガラス瓶とシリンダーがいくつかあるのをわかっていた。私の両目を交互に見つめる若草色の瞳が、責めるようにゆらめいた。

「あなたはこの実験の意味がわかっていてそんなことを? これは僕にとっては核心的な、つまり……」

 そこまで言いかけて、彼は一度固く目を閉じた。短い沈黙のあとに再び私を見つめた瞳は、すでにいつもと同じように優しさと冷たさを等しく秘めていた。

「いえ、あなたはもう全部わかっていますね」

 私はその言葉を否定しなかった。彼は答えを求めず、軽い調子で続けた。

「……やりましょう。でも少しにしてください。もしその力が例外だとしたら、大変なことになります」

 彼は手際よく器具の準備を始めた。そしてガラスの漏斗を手にしながら、椅子に座った私を改めて眺めた。それはあの観察的で批評的な、単なる「謎めいた存在」へ向けられる視線だった。

「普通は手首から採血するんですが……あなたのその手には都合が悪いですね。足はどうです」

「君のやり方に任せよう。ファーのときはどうやって?」

「腕を簡単に縛って、手首をナイフで開きました。魔法を使うと数値に影響があるかもしれないので、痛みには耐えてもらうしかありません。五秒くらいで充分なはずです。彼は僕にはやらせたくないと言って、切るのも傷を治すのもご自分で。さすが、全然迷ったりしないんです。あっという間でした。出来ればあなたにもそうして欲しいですが、足だと難しいですね。考えたくないですが、ナイフは僕が持ちます。回復は、どうかご自身で。言ったとおり苦手なんです」

 淡々と言葉を繋ぐ彼の顔は、青ざめていた。忙しなく身体を動かす彼のローブの袖が風を生み、林檎の木の枝先で白い花が首を振るように揺れる。どれだけの時間と手間をかけて彼がこの花を咲かせたのかを考えながら、私はその惨いほどに純粋な生命の香りを味わい、沈黙していた。

「やめておきます?」

 隣の作業台から新しいシリンダーを拾い上げた彼の諦めた眼差しに、私はゆっくりと首を振った。彼はやはり軽い調子で頷いた。

「では、やりましょう。洞窟探検に怪我はつきものですからね」

 彼は真面目な顔をしていた。私は彼がたどり着くであろう結論を、このときすでにわかっているつもりだった。しかし枝を離れた林檎がいつかは地面にたどり着くことはわかっていても、その落下の途中で、どの葉に触れ、どの枝を揺らし、どれだけその実を傷つけるのかは予想ができないものだった。


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