人の証明(下)


人の証明(上)

*流血・傷に触れるなど痛みに関する執拗な描写があります。

*彼→ソーサ・シルへの感情描写があります。


  林檎の花の香りと、装置の燃料であるオイルの匂いに満ちた研究室は、いつになく静かだった。屋根裏の寝室から持ち出された柔らかな布張りの椅子に座り、私は足元で実験の準備をする彼の広い額を眺めていた。彼は広げた布の上にガラスのシリンダーや漏斗を並べるあいだ、終始無言だった。褐色の床と壁に囲まれた部屋で、彼の忙しなく無駄のない動作は、一本の氷の矢のように鋭く脆弱に見えた。

 ガラスの器具が触れ合う高い音が止むと、彼は最後に練金台に置かれていた質素な銀のナイフを手にし、ゆっくりと私の前に膝をついた。

「もう一度言います。傷をふさぐのはご自身でやってください」

「そうしよう」

「……少し縛っても? その方が早く済みます」

「構わない」

 彼は乾いた白い布を手にして、躊躇わずに私の素足に触れた。彼の手は恐ろしく冷たく、そのせいで私が脚を揺らすと、彼は顔も上げずに、失礼、と言ってそれを取り押さえ、容赦のない強さで縛った。雑多な部屋の中で沈黙のうちに行われるこの実験は、私がこれまでに見たどんな儀式よりも奇妙で、しかし静謐さを覚えさせるものだった。

「切るのは得意です。失敗はしませんので安心を」

「不安はない。少しも」

「……それはよかった。流れた血が親指を伝うように、足首の内側を切ります。ここです。嫌だったら見ないでください。僕がいいと言ったら回復を」

 彼の冷たい指先が、呪われた色をした私の足首の一点を、いたって事務的な仕草で押さえている。沈黙で了承を返すと、彼は指で押さえた箇所にナイフをゆっくりと当てた。わずかに傾けられたナイフが、橙色の灯りを反射して煌めく。その刃の感触よりも、私の足を包む彼の左手のそれの方がずっと冷たかった。

 彼はしばらくじっと息を潜めていた。やがて短く息を吐きながら、彼はナイフの刃を肌の上に寝かせ、小さく首を振った。彼の手は震えていた。俯いたきり迷っているその姿を見ながら、私は彼の名前を呼んだ。彼は顔を上げなかった。私は縛られたままの右足が少しずつ痺れていく感覚を味わいながら、もう一度彼の名前を呼んで告げた。

「顔を上げなさい」

 震える手で私の足を押さえたまま、彼はようやく顔を上げた。新緑が映りこむ湖のように濡れた瞳が、私を睨むようにまっすぐ見上げた。

「君の前にあるのは、君と同じ仕組みをした人の肉体だ。少しも違わない」

 私の言葉に、彼は瞬きもせずに私の目をじっと見つめた。その澄んだ湖には、明るい陽の光と深い森の闇が等しく渦巻いていた。

「はい」

 ほとんど唇の動きだけで囁くように答えると、彼は再び顔を伏せ、私の足をしっかりと支え、ナイフの刃を立たせた。二度目の逡巡は一瞬だった。

 正確に開かれた傷のあいだから、少し遅れてせき止められていた血液が溢れ出す。その赤は私が想像していた以上に鮮やかで、瑞々しく、驚くほどに美しかった。心臓の音に少し遅れて押し出される赤い液体が、彼の正確な誘導で私の親指を伝い、漏斗へ滴り落ちる。じわりと染み出すように、鋭い痛みが肌を焼いた。遠く忘れていたその肉体への罰の感覚に、私は驚嘆し、そして魅了された。

 視界を埋めていく赤。そこに確かに存在する生命が、失われていく景色。岩肌を流れる溶岩、灼熱の風、髪を掠める白い灰。開いた傷口、止まらない血、流れ出す命。

「充分です」

 小さく響いた彼の声が、古い記憶に重なる。それがあの時の彼の言葉なのか、私の言葉なのか、はっきりと思い出せなかった。曖昧な記憶をこじ開けるように辿る。傷口に指を入れてまさぐるような緊張が、視界を覆った。

「止めてください、早く」

 止めなければいけないと理解していながら、私はその記憶が身をよじって逃げていくのを引き留めようとしていた。傷口をこじ開けた指先がかき分ける湿った肉の感触は、罪と同じ手触りをしていた。

「だめです、だめです……どうか、お願いです」

 焼け付く肉のあいだを、固く乾いた金属の指が沈んでいく。もがき縺れる指先が触れたのは、溶岩の奥底に眠る、氷のように冷たく残酷な後悔の手触りだった。

「シル!」

 その冷たい闇をつかみかけた瞬間、かき分けていた溶岩が消え、肌を焼く灼熱の風が止んだ。視界を埋めていた赤が熱を失う。時間が巻き戻るように機械の手の感覚が肩に収まり、私は瞬きをした。気が付くと、血を溢れさせていた傷口は塞がっていた。

「どうか……」

 細い声が足元から聞こえる。血に濡れた白い指先の下で、大きなガラスのシリンダーが今にも溢れそうになっていた。彼が白い布でゆっくりと私の足をぬぐう。もう一度瞬きをした先で、青ざめた彼の手が思い出したように震えだした。彼は赤く染まった布を取り落とし、激しく戦慄く両手で私の足を抱えこんだ。震える彼の呼吸が、塞がった傷口に押し当てられる。どうか、ともう一度掠れた声で囁いて、彼は肩を震わせたまま縋るように私の足に額をこすりつけた。ようやく我に返り、私は彼にかける言葉を考えた。

「……何の不足もなかった。苦手とは思えないな」

 私の言葉を聞くと、彼は私の足首に顔を押し当てて大きく背中を震わせた。彼の唇のあいだから嗚咽が漏れるのを聞いて初めて、私は自分が思っていたよりも事態が深刻なことを悟り、静かに自分を責めた。

 亡骸を抱くように私の足を抱え、彼は声を押し殺して泣いていた。震える呼吸の下で、彼は恐らく私を罵る言葉を探していた。彼の魔法によってすっかり元通りになった私の足を痛いほどに掴みながら、彼は掠れた声で呟いた。

「あなたはなぜ、」

 暖かな息が押し当てられる足の甲を、血液ではないものがゆっくりと濡らしていく。尋ねる言葉を途中で諦めたきり、すがるような姿勢で泣き続ける彼に、私は手を伸ばした。一つに集められた銀色の髪に触れ、それを乱さないようにそっと頭を撫でる。機械の手の下で震えながら、彼は子供のように泣いた。

「すまなかった」

 彼は震える唇を私の足に押し付けたまま、必死で呼吸を整えていた。林檎の花の香りに、暖かく残酷な生命の匂いが混じる。この因果の連鎖が何のために存在しているのかわからないまま、私は落ちていく赤い果実たちを眺め続けることしかできなかった。


「不思議ですね。やはり力は肉体ではなく、魂に宿るものなのかもしれません。でも……計測器は壊れていないですよね? そこから見えますか? 椅子をもっとこちらへ。足が痛むようなら、ベッドでゆっくりしていっても……ああ待って、変な意味じゃありません。本当です」

 装置に繋いだシリンダーの液体を見つめながら、彼は水で濡らした布で目元を冷やしていた。その口調は淡々としているものの、装置の示す目盛りを見つめる彼の瞳は明るく燃えていた。細い針が示す数値は極めてゼロに近いもので、それは彼が持つ他の二つのサンプルと同じ結果のようだった。

「この結果があなたを不快にさせないといいんですが。それから……」

 そこまで言うと、彼は思い出したように布で目元を押さえて、ため息をついた。

「取り乱してすみませんでした。自分でも驚いています。……僕の実験に付き合わせてしまいましたね。お手伝いが必要でここにいらしたのでは? なんでもやります。もちろん血を流すようなことでも」

 真面目な顔で告げられた言葉に、私は目の周りをうっすら赤くしている彼の顔を見て答えた。

「今日はここまでに。私にとっても興味深い実験だった」

「……そうですか、それはよかった」

「君にはまた協力を頼むだろう。しばらくはここにとどまるつもりだ。また改めよう」

 立ち上がりながら足した最後の言葉に、彼の瞳はそよ風に揺れる新緑のように輝いた。彼は音を立ててスツールから立ち上がると、改めて作業台の上のシリンダーを眺めて言った。

「その、嫌でなければ持って行きませんか? きっとこの先、あなたに血を流す機会なんて二度とないと思います。そのはずです。そうでなければいけない。そう願います。……危険を呼ぶものではないこともわかりましたし、記念に。ちょっと待ってください」

 私が返事をしないうちに、彼は実験に使わなかった残り半分の液体をポーション用の小さなガラス瓶に移し、透明な蝋で封を施した。続けてその瓶を両手で包むと、彼は驚くような速さと気軽さでそれに魔法をかけてみせ、瓶を軽くはじいた。

「さあ、これで瓶は開きませんし、ちょっとやそっとじゃ割れません。変性魔法は得意なんです。中身も当分は……といっても百年くらいでしょうが、新鮮なままだと思います。どうぞ」

 遠慮なく私の手を取りガラス瓶を握らせると、彼は少し沈黙したあとに付け加えた。

「……すみません、持っているのが怖いんです。力が宿っていないとわかっても、僕にとっては、とても……意味がありすぎるんです。つまり、持っているべきものではありません」

 受け取った円錐形の瓶を、軽く握り直して眺める。片手で握れるほどのガラス瓶の中で、冷えた溶岩のような沈んだ色の液体が揺れていた。彼の背後の作業台に視線を走らせると、シリンダーの中で同じ色に燃える液体が、じっと彼の背中を見つめていた。

「美しいですね」

 呟いた彼の言葉に顔を上げる。緑色の瞳は、この手の中の小瓶ではなく、私の目を見つめていた。彼の表情が悲しみと喜びのあいだを彷徨う。その瞬間、私はこの因果が、いくつも連なる鎖の一つが、すでに限りなく終わりに近い場所にあることを理解した。

 予感を覚えた私が彼への言葉を用意するうちに、彼が静かに瞬きをした。その瞳には、いつも隠れることのなかったあの観測的な鋭さは存在せず、新緑を映していた湖には鮮やかな空の色が宿っていた。

「あなたを愛しています」

 私の一瞬の隙を、彼は見逃さなかった。その短い言葉はとてもさりげなく、風が葉を揺らすようなささやかなものだった。澄んだ湖が瞬きに揺れ、沈黙を埋めるように花の匂いが濃くなる。彼は今、傷口に指を入れて弄るあの感覚と同じものを感じているに違いなかった。

「出口には辿り着いていません。でも今、少しだけ……岩の裂け目から差し込んだ光に照らされた、あなたの姿を見た気がしたんです。僕は確かに、この胸で感じました。あなたは美しい。とても。僕はあなたを愛しています」

 いつもの淡々とした口調の中に、説き伏せるような強引さが覗く。そこには睦言の優しさはなく、確信を告げる力強さだけが宿っていた。鮮やかな緑と青のあいだで燃える眼差しに、私は言葉を返した。

「君の言葉を疑う理由はない。だが、もし君が私に望む言葉があるとしたら、きっとそれは私には用意できないだろう」

「いえ、あなたには何も望みません。言ったとおり、これは僕個人の問題です。僕の中だけに存在している、あるいは……僕だけがその中に存在している命題なんです」

 彼は澄んだ瞳を細めて、微かに笑った。それは私が初めて見る、彼の優しく感傷的な表情だった。

「あなたは僕のことがなんでもわかるでしょう。僕がこれからどこへ向かうのか、そしてどこで潰えるのか。どれもあなたにとってはとても些細で瑣末な事です。けれど、」

 笑みを浮かべたままそこまで言うと、彼は私の目をじっと見つめ、自分に言い聞かせるような小さな声で続けた。

「僕が今感じているものは、あなたにはきっとわからないでしょうね。……でもそれでいいんです」

 彼がもうそれ以上の言葉を用意していないことを理解して、私はようやく最後の言葉を口にした。

「君に渡したいものがある。あとで聖堂に来てくれ」

 彼は素直に驚いた顔をした。私は彼の返事を待たずに、聖堂にある自分の書斎へと移動した。私は疲労を覚えていた。

 静かな金属の部屋で、肉体に移った花の残り香を感じる。彼から受け取った小瓶を手にしたまま、私はしばらくのあいだ眺めることもしなかった部屋の隅の飾り棚に近づいた。そこにはいくつかの特別な品とともに、黄金の宝物が置かれていた。

 静かに時を待つそのアミュレットを手にし、代わりに赤い液体の揺れるガラス瓶を置く。私は自身の弱さを自覚していた。私はこのアミュレットを手放したいと考えていた。それが一時的な気休めにしかならないことが分かっていても、なお同じ思いだった。

 冷たく優しい金属の手触り。機械の手の中で、繊細な鎖が微かな音を立てる。魔法は名残を保たず、しかしこの肉体は、先ほどまで感じていたあの生々しい生命の香りと、刻まれた傷の痛みをまだ覚えたままだった。


 ルシアーナが彼の訪問を報せにやってきたとき、私はまだ手の中のアミュレットを眺めていた。彼女は私が手にしたものを見て、言いかけていた彼に関する皮肉を飲み込み、途端に乱暴な態度になった。それでも私が同席を頼むと、彼女は小さく肩を竦め、わかりましたと低い声で答えた。

 今ではほとんど使われることのなくなったホールで、彼は所在ない様子で立っていた。まだ少し赤い目をして考え事に耽っていた彼は、私の背後にルシアーナの姿を認めると、さっと顔色を変えた。私が口を開く前に、彼は顔を伏せながら切り出した。

「待ってください、どうか……いえ、考え直してくれとは言いません、あなたが決めたことなら従います。でもまだやることが……つまり、この街のことなんです。スラグ・タウンの鋳造窯を作り直す約束をしてしまって。それからグランド・デポジトリーのリフトの調子が悪いのも知ってます、修理を頼まれてるんです。せめて一か月の猶予を。もちろん出ていく準備はすぐします。ああ、でもあの林檎の木は……ルシアーナ、あなたは植物の世話をしたことが? とても美しい花が咲くんです。きっと気に入ります」

 彼の一方的な語りが終わるとホールは沈黙に包まれた。私が彼の誤解を正そうと口を開くと、彼は素早く顔を上げて私を見つめながら続けた。

「今だから言います。あの花は、あなたにとても似合うと思っていたんです。知ってました? あなたにはああいった、刹那的なものが意外と似合うんです。ああ、意外というのはこの場合……いや、余計なことですね、すみません。一応伝えておきました。念のため」

 私は少しの驚きを覚えていた。そして私の隣に立つルシアーナは、恐らく私よりも数段強く驚きを覚え、ほとんど打ちのめされているはずだった。私は気を取り直して、彼にはっきりと伝えた。

「君は誤解している。私は君を追い出すつもりで呼び出したわけではない」

 私の言葉を聞くと、彼は短い間のあとに胸を押さえ、大きく息を吐き出した。

「ああ……心臓が止まるかと! 襟首を掴まれて餞別と一緒に放り出されるのかと思ったんです。ルシアーナ、この場所であなたに会うと、ここへやってきた日のことを思い出してしまって……覚えてます? 僕は忘れもしません。襟首を持ち上げられて、でもあなたはその手を離しましたね。あの時と同じ気持ちでした。林檎のことは忘れてください、秘密にしてるんです。それにシル、花は……こんな風に言うつもりは……でも本当です、あなたに似合います。実際。似合うというのは、つまり……」

 そこまで言うと、彼は一度目を伏せてから、いつもの涼しげな眼差しで私を見た。

「……失礼。ご用件を聞かせてください」

 急に静かになった彼の姿に、ルシアーナはようやく身じろぎをし、困り果てた様子で私の顔を仰いだ。私は目の前の彼に頷いて、手に握ったアミュレットを差し出した。

「これを君に。この街と、私自身への協力に感謝しよう」

 彼はしばらく腕を伸ばさなかった。私の手の中の黄金のアミュレットを、彼は瞬きもせずにじっと見つめた。その瞳に映る黄金色は、私の判断が誤りではないことを示すように、新緑の色によく似合った。彼はしばらくアミュレットを見つめたあと、胸を押さえたままだった手を強く握り、不安げに私を見上げた。

「大切なものでは?」

 私は指のあいだで優しい音を立てる鎖の感触を確かめ、答えた。

「それは私が決めることではない。君がこれから決めることだ。これはすでに君のものだ。そして今までもずっとそうだった」

 もう一度促すと、彼はようやく手を出し、まだ迷いながらアミュレットを受け取った。しかし一度それを手にすると、戸惑いに揺れていた瞳は途端に風のやんだ湖のような澄んだ決意を見せた。彼は確かめるようにそれを握り、顔を上げて私に言った。

「感謝します。心から」

 柔らかな鎖の感触が手から離れたことに、私は不安も覚えず、安堵も感じなかった。回り続ける連鎖の一回転を見届けることは、私に与えられたささやかな罰でもあった。

 彼が去ると、ホールに残っていたルシアーナがようやく言葉を取り戻した様子で私を振り返った。彼女は私が予想したのとは別の言葉を口にした。

「彼、あなたといるときはいつもああなんですか?」

 質問の意図が分からず黙っていると、彼女は何度か大きく瞬きをして呟いた。

「あんなに取り乱すところを初めて見ました。いつも冷静で、どちらかというと無口ですし、とても……スマートなので。知ってました? 彼に会うのを楽しみにしている使徒が結構いるんです。さっきからここはちょっとした騒ぎですよ。……彼、前から『シル』と?」

 尋ねながら、彼女は改めて私の顔を見た。その期待の感じられない眼差しに、私はそれが質問ではないことを悟り、説明を取りやめた。ルシアーナは私を憐憫に満ちた眼差しで見つめたあと、目を伏せて呟いた。

「残念ですね」

 彼女は私に背を向け、彼が去っていったのと同じ扉から聖堂を去った。シーケンス・スプールのプレートが回る冷たい音が響く部屋で、私は耳を澄まし、向ける先のない優しい悔恨を心に浮かべていた。


 その後私はしばらく聖堂とコギタムのあいだを行き来した。街へ出るたびに、そこには必ず何かしらの欠陥が生じていた。そしてそれを直すための使徒たちの試みは、幾重にも失敗を重ね続けた結果、砕くことも困難なくらいに頑なな過ちとなっていることがほとんどだった。

 その点彼は、自身の評価のとおり、直すことよりも壊すことの方に秀でていた。彼はどんなに頑なな失敗でもそれを根底から壊し、そして一から正しく創りあげた。この因果の連鎖に連なっていることが不思議なくらい、彼は大胆で力強く、自由だった。

 私が彼に協力を依頼した実験が一段落すると、珍しいことに彼は休暇を願い出た。その理由を彼は「前の師への借りを返すため」と説明した。私は彼にそれ以上のことを尋ねなかった。枝から離れた果実が地面へたどり着くまでの時間を、私はこのときも読み誤ることになった。

 彼が旅立ってから数か月が経過したある日、コギタムで研究を続けていた私は、聖堂で常ならざる事が起こっている気配を感じ、コギタムを出ることにした。それは私がこれまで予期してこなかった類のもののようだった。私は騒ぎの中心である聖堂の身廊へ向かった。時間は深夜に近かった。

 ホールに続く廊下では、何人かの使徒とファクトタムが忙しなく走り回っていた。大抵清潔な聖堂の床が、泡を浮かべる大きな血溜まりと、魔力を帯びた氷の破片に汚されている。すぐそばで、青白いポータルが口を開き、静かに私を見つめていた。

 私を一番に見つけたのはルシアーナだった。医療用ファクトタムが控える部屋から出てきた彼女は、ぎらつく炎を湛えた目で私を捉え、ゆっくりとこちらに近づいた。重い音を立てながら私に迫る彼女の機械の身体は、長く険しい戦いを生き延び続ける戦士のように力強く、そしてひどく疲弊していた。

 ルシアーナは私が予想した言葉を口にはせず、代わりにその拳を私の前に突き出した。鼻先に突きつけられた機械の手には、鎖のちぎれたアミュレットが握られていた。岩のように固く握られた彼女の拳から頼りなくぶら下がるそれは、黄金と呼ぶのを躊躇うくらいに、生々しい赤に染まり、潰れ、歪んでいた。

 温度を感じるほどに明らかな、失われていく生命の匂い。べったりとまとわりつく赤い血が滴り落ちる寸前で、ルシアーナは拳を静かに引いた。足元に赤い一雫が落ちる。温かな飛沫を素足に感じながら、私は彼女の言葉を待った。

「時間ぴったりですね。ソーサ・シル」

 彼女の目に灯る炎は、怒りというよりも失望の色をしていた。私はこれまで彼女がどれだけ傷つき、理解しがたい裏切りに打ちのめされてきたかを考えた。償うことのできないその罪の手触りを確かめるために、私は彼女が握ったアミュレットに手を伸ばした。ルシアーナは血に濡れたそれを躊躇せず私の手に押し付けた。

「全てわかっていたなら説明しません。時間の無駄ですから。あなたの予知の正確さを確かめたいなら、後にしてください。ポータルが繋がっている場所を確かめに……」

 苛立った様子の彼女がそう言いかけると、まるでその言葉を聞きつけたように、ホールの前で渦巻いていたポータルがゆっくりと閉じた。追いかけようとしたルシアーナは、すでに時空の歪みが正されて静まり返る虚空を見つめ、小さく悪態の言葉を口にした。

 私は事の次第に違和感を覚えていた。はっきりとは感じ取れない奇妙な歪みが、この場所に、この因果に存在していた。そして不思議なことに、その歪みは悪意のあるものではなかった。

「ルシアーナ」

 ポータルの横に残された血溜まりを見つめるその背中に声をかける。私は彼女をこれ以上余計に刺激しないよう、正直で簡素な言葉を選んだ。

「結果についてはわかっている。だがその過程は複雑に縺れている。君が見たことを教えてほしい」

 率直な依頼にルシアーナが振り返った。彼女は丸くした目で私の顔をじっと見ると、小さくため息をついて首を振った。

「……失礼なことを言いました。どうしていつもこう……すみません」

「構わない。当然のことだ」

 促すと、ルシアーナは整理のために沈黙したあと、迷いながら話し出した。

「よく……わからないんです。ちょうど夜の見回りに行こうとしてここへやってきたんです。すると突然、本当に前触れなく、ポータルが開いたんです。あなたの領域を越えるくらいの強力なものだと思い身構えていると、中から……彼が。胸を大きな氷で貫かれた状態で。ここに倒れたときには、もう目も開けていませんでした。この血は……運ぶのに少し時間がかかったんです。氷が大きすぎて、動かすほどに、その……損傷が」

 医務室の扉越しに、彼の状態を測定しようとするファクトタムの抑揚のない声が聞こえる。その続きを聞かなくとも、私は結果を知っているはずだった。しかし私は、起こるはずでなかったいくつかのことが目の前で縺れている気配を覚えていた。先ほどまで口を開いていた穏やかな青色のポータルに、私は一種の懐かしさを感じていた。

 私は床に広がる血溜まりをもう一度眺めた。小さな泡のあいだに沈む氷に混じって、割れたガラスの破片が散らばっている。手の中にあるアミュレットを見ると、不思議なほど鮮やかな赤が、優しく機械の指を濡らしていた。

「彼は」

 私の質問に、ルシアーナは戸惑いを見せた。当然だった。結果を知っていると述べた私が、その結果を尋ねたのだ。しかし私はほとんど確信に近い驚くべき予感を覚えていた。

「あなたが手を下さないからといって、出来ることがないわけではありません。みんな手を尽くしてます」

 私は言葉を忘れていた。ようやく理解したルシアーナが、驚いた顔で私を見つめる。彼女は私の手の中の血濡れたアミュレットをぼんやりと見て、小さく頷いた。

「ええ、まだ生きてるんです。信じられないことに」


 治療台の上に横たわった身体は、生命の気配を探るのを躊躇うほどに損傷していた。見事に彼の胸から背中までを貫いた魔力の氷は、隣でそれを溶かすための炎を吹いているファクトタムの腕よりも二回りも大きく、刃のように鋭かった。

 医務室に現れた私の姿に、彼の命を繋ぐために回復魔法を唱え続けている使徒の一人が驚いたように顔を上げた。しかし彼はすぐに呪文に集中し直し、こめかみに浮かぶ汗を拭いもせずに、彼の身体へと手をかざし続けた。ここにいる誰もが、神の奇跡を待たず、自らの手でそれを創り出そうとしていた。

「息があるんです。この状態で……何がそうさせるのかわかりません。心臓はもう手遅れなはずです」

 手を出せずに苛立つルシアーナの横で、医療用ファクトタムが測定結果を淡々と読み上げる。その結果はほとんどが「測定不能」で、あまり意味をなさないものだった。私はファクトタムの前へ進み、治療台に横たわる彼の青い横顔を見た。瞼を閉じた彼の顔は穏やかだった。

 私が手を下さないとわかっていてもなお、ルシアーナは私の判断を受け止め難いようだった。好転しない状況に焦れた彼女が、魔力と炎の熱気に包まれる部屋を出て行こうとしたその時、回復を続けていた使徒が声を上げた。

「意識が戻ります」

 見ると、青白い横顔がうっすらと目を開けるところだった。新緑の色の瞳は混濁し、焦点が定まっていない。治療台に頬をつけている彼の面の方に立った私に、彼は遠くを見たままゆっくりと瞬きをして言った。

「……シル。なぜ、あなたが」

「静かに。じっとしてくれ……傷が開くぞ」

 回復魔法を唱える使徒が、絞り出すような声で告げる。彼は何度か虚ろに瞬きをすると、傷、と繰り返して、思い出したように顔を強張らせた。

「傷……まさか……だめだ。どうか……」

 彼はもがくように腕を動かし、震える指を治療台に這わせた。回復魔法を唱えていた使徒が彼の様子に戸惑い、かざす手の魔力を弱める。同時に彼の胸に刺さっていた氷の塊が、炎の熱ではない何かによって少しずつ溶け始めた。

「そんな……だめだ、」

 同じ言葉を魘されるように繰り返す彼の様子に、ルシアーナが困惑のうちに私を見上げる。私は彼の前にそっと膝をつき、その青白い顔を見た。彼は浅い呼吸に喘ぎながら、投げ出した左手を重たそうに動かし、胸の傷を探り始めた。白い指がまだわずかに残る氷の刃を辿り、震えながらその奥へと分け入る。開いた傷口をかき分ける指は何かを探していた。

「アミュレットはここに」

「シル……許してください。僕は……」

 私の言葉にも譫言を返し、彼は傷を探るのをやめなかった。

「何を探して、」

 壮絶な光景に呻くように呟いたルシアーナへの答えを、私は持ち合わせていなかった。彼の震える手のその奥、溶岩のように赤い傷の中を見つめる。そして青白い彼の指が探る傷口の奥に、私はようやく答えを見つけた。苦痛に呻き声を上げながら、彼は指先がその硬い感触に行き当たることを、或いはその逆を望んで、氷に焼かれた肉のあいだを必死に弄った。

 ルシアーナが耐えきれずに目を背ける。私は虚ろな目を開いたまま傷を探る彼に、頷いて聞かせた。

「ああ。そこにある。だがすでに壊れている。取り出すことはできないだろう」

 私の言葉が彼の耳に届くのと、彼の指が傷の奥深くに埋まった丸いガラスに届くのとは、ほとんど同時だった。彼は指をそっと動かし、その割れたガラス瓶に触れ、そして力なく腕を下ろした。うっすらと開いただけの彼の目から涙が溢れた。

「ごめんなさい、シル」

 消え入りそうな声で、彼はそう呟いた。凍りついたように虚ろな湖の瞳から、続けて涙が滑り落ちる。血に濡れた拳を弱く握り、ごめんなさい、と吐息だけで繰り返した彼に、私はゆっくりと告げた。

「君がたどり着いた結果だ。恐れる必要はない。そして他に道はない」

「……シル。どうか……お願いです」

 私と彼とやり取りに、周囲の者が息を呑む。魔力を使い果たして座り込んだ使徒は祈りはじめ、ルシアーナは顔を背けたまま悪態をついた。私は虚ろな視線を投げる彼の次の言葉を待った。私は彼の望みを理解していた。

「使わないでください……あなたの力を、魔法を。このまま……失いたくないんです。あなたは僕の、」

 引き攣り掠れる声で、彼は私に懇願した。ルシアーナが再び息を呑む。私は青ざめて凍り付いていく彼の瞳を見つめ、小さく首を振った。

「私は力は使わない。使うのは君だ。君は自分で治せるはずだ」

 彼は浅い呼吸のうちに打ちひしがれた表情を浮かべ、目を閉じた。ほつれた髪が張り付く頬に、再び涙が落ちる。彼の胸にあった魔法の氷は、もうとうに消えてなくなっていた。

「無茶です。彼はもう、」

 苛立った様子のルシアーナが、続く言葉を飲み込んで私を見下ろした。私は立ち上がり、乱れた彼の髪にそっと手をやった。流れ出る血で真っ赤に染まった治療台の上で、彼は壮大な儀式の供物のように優しく目を閉じていた。

「出来るはずだ」

 彼の髪を撫でて告げる。血に濡れたまま投げ出された彼の手が、ぴくりと動いた。手のひらの下の彼の髪がじわりと暖かさを得る。生命の温度を失い始めていた胸の傷口が、再び溶岩のように輝きながら燃え始めた。鼓動の音に合わせて、ゆっくりと傷が塞がっていく。胸の奥に潜む壊れたガラス瓶は、心臓そのもののように鼓動と共鳴して震え、彼の身体の中へ吸い込まれていった。

 それはほんの数秒の出来事だった。私の手のひらの下で、彼がゆっくりと息を吸う。大きな傷跡を残してその形を取り戻した彼の胸が、暖かな色に輝いたあと、何事もなかったかのように呼吸に合わせて上下を始めた。

 汗をかいた彼の額を撫でて、私はゆっくりと手を離した。彼は静かに眠っていた。

「いったい、彼に何を……」

 固唾を飲んで彼の変化を見つめていたルシアーナが掠れた声でそう尋ねた。私は安らかな彼の寝顔を眺めながら答えた。

「何も。彼自身が辿り着いた結果だ」

 すでに暖かな色を取り戻し始めた彼の頬に、涙のあとが残っていた。私は彼の回復を待たなければならなかった。彼が連なったこの長い因果の鎖は、どこか深いところで縺れ、まだ完全には解かれていないはずだった。


「ドラゴン?」

 ルシアーナは驚いた顔で繰り返した。彼は治療台の上で、長く寝ていたせいで痛めたらしい首を撫でながら、ええ、と頷いた。

「前の師にとある依頼をしたんですが、条件としてドラゴンの血を求められたんです。それも新鮮なものをと。何に使うかは聞いていません。恐らく理由の半分は僕の研究へのアドバイスで、もう半分は単なる僕への意地悪です。あなたの名前を出すと、彼、本当に機嫌が悪くなるんです。多分僕が羨ましいんです」

 丸二日目を覚まさなかったわりに、彼はいつものように流暢で、あっさりとしていた。彼が目を覚ましたという知らせを受けて私が医務室を訪れたとき、彼はすでに治療台の上に起き上がり、彼の健康状態を測定しようとするファクトタムに抵抗しているところだった。彼は私の姿を見るとじっと押し黙り、目を伏せて項垂れた。

「それでどこへ?」

 ドラゴンという言葉を聞いて堅い表情になるルシアーナに、彼はやはり軽い調子で答えた。

「エルスウェアです。太古の強力なドラゴンを追っている一行がいると聞いて、ついて行くことにしたんです。どうせなら強いドラゴンのものの方がいいでしょうから。初めは断られたんですが、ファーの名前を出すと皆納得しましたよ」

 包帯を巻かれた胸を押さえながら、彼は視線を落ち着きなく動かしていた。なかなか核心をつかない彼の回答に痺れを切らして、ルシアーナが語調を強めて尋ねた。

「あの傷はドラゴンに? どうやって治したと? それに、どうやってエルスウェアからここへ……あのポータルは自分で?」

 質問攻めにも気圧されることなく、彼は一度それらを無言で受け止めた。少し考えて、彼は私とルシアーナの顔を交互に見ると、いつもの表情で切り出した。

「ドラゴンがいるという島に行くために、船に乗りました。姿を見るだけで一年はかかると聞いていたんですが、島にたどり着く直前に、頭上に……現れたんです。巨大なドラゴンでした。ところが、一行も動揺してるんです。追っているドラゴンではないと。見たこともないと言うんです」

「それで、船が襲われて?」

「いえ、それが……攻撃してこないんです。彼はじっとこちらを見て、そして……僕を見つけたんです。彼は僕を見て、僕一人だけに向けて、氷雪の魔法を」

 そこまで言うと、彼は片手を額にやって唸った。ほつれてこめかみに垂れた髪をじりと手のひらで押さえつけ、彼は小さな声で続けた。

「それから先は、かなり曖昧で……。ドラゴンが遠ざかっていくのを見ながら、僕は船から投げ飛ばされて、海に落ちたはずなんです」

 ルシアーナは黙っていた。私は物語の続きを聞かなければならなかった。私の知る物語は、彼の語った場面で終わりを迎えるはずだった。

「そうではない景色を見たと?」

 私が促すと、彼はようやく私の顔を見て、そのまま押し黙って記憶を追いかけた。萌えた若葉の色の瞳の向こうには、複雑で強烈な物語の気配が潜んでいた。

「……気づくと、見たことのない場所にいました。美しい海と砂浜が続いていて、でも空を見上げると、この街と同じように機械仕掛けのドームがあるんです。胸の氷はなくなっていました。……そこで、一人の男に会ったんです」

 質問はいくつも思い浮かぶはずだった。しかし私の心は、すでに一つの予感を覚え、立ち止まっていた。沈黙する私に、彼は目を細めて記憶を辿りながら続けた。

「冒険者風の男で、名前は名乗りませんでした。青い目で、髪が濡羽のように黒い」

 私は驚きを覚えるよりも早く、あの空と海の色をした瞳を思い出していた。ルシアーナが息を呑んだまま私の顔を見つめる。彼女は私が答えを持っていると信じている様子だった。我々の沈黙に、彼は戸惑う様子もなく頷き、話を続けた。

「不思議なんですが、誰なのか尋ねようという気にならなかったんです。なぜか……知っている人物のような気がして。今考えると妙ですが……彼ははじめ僕が現れたことに驚いて、それから僕の胸のアミュレットを見たんです」

「それで、彼はなんて」

 ルシアーナの急かす言葉に、彼は胸に巻かれた包帯の上から傷に手を当て、ゆっくりと私の顔を仰いだ。

「……まだ戻れるだろうと。彼は僕にそう言いました。それでポータルを出してくれたんです。急がないと戻れなくなると言われ、ポータルを使いました。それから先のことは……僕よりよくご存じかと」

 彼が話し終えると、部屋は静まり返った。驚愕の面持ちで彼の言葉を聞いていたルシアーナが、小さく身を乗り出す。

「他には。その場所はどこなの? 彼はなぜそこに? 一人で?」

「わからないんです。遠くで、ドラゴンの声がしたような……でも曖昧です。彼は自分の話は何も。……彼は、いったい何者ですか?」

 私は投げられたその質問を聞いて初めて彼の忍耐に気づいた。言葉を思い出し、私は彼に告げた。

「失われた歯車の一つだ。とても強く、頑ななものだった。私にとっても、彼は稀な存在だった」

 隣のルシアーナが、何か言いたそうに身体を揺らす。しかし彼は私を見つめて静かに頷き、それ以上の質問をしなかった。そのことはルシアーナの機嫌をさらに悪くさせた。望む情報が何一つ手に入らないやりとりに痺れを切らした彼女がため息とともに部屋を出て行こうとすると、彼がふと顔を上げた。

「ポータルを使う前に、彼から尋ねられたことが。シル、あなたについてのことです」

 彼は胸を押さえながら私を見上げていた。ルシアーナが扉の前で立ち止まる。彼は新緑の瞳を瞬かせて少し考えてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「あなたの書斎にはまだ花があるかと。そう聞かれました」

 彼の瞳は、まるで風に揺れる湖の水面のように、柔らかな葉の色と時折空の色を映して輝いた。私は扉を開けようとしていたルシアーナの機械の手が重力に従って静かに下がるのを視界の端に見ながら、彼を促した。

「……それで」

「僕はわからないと答えました。あなたの書斎に入れてもらったことは一度もありませんから。大抵僕の研究室かアトリエで会うのでと言ったら、彼は羨むような顔をするんです。僕からしたら逆なんですが」

 彼は微かに笑みを浮かべて、懐かしむように目を細めた。

「花はあってもなくてもどちらでもいいと言って、笑っていました。……花がお好きだったんですか? なぜ言わないんです」

 不思議そうに笑う彼の澄んだ眼差しに、私はかつて数えきれないほど届けられた花々の色かたちを思い出していた。私に与えられた時間からすれば決して遠い昔とは言えないその記憶は、しかし辿るほどに懐かしく、まるで幼い頃のそれのように無邪気だった。私はそのことに満足し、頷いて答えた。

「その話を聞けてよかった。予期していたことではないが、決して偶然ではない。その手を取り、導く存在がいたことに、君は……我々は感謝すべきだろう」

 私の言葉に、扉の前で立ち尽くしていたルシアーナが大きくため息をつく。彼女は私を一瞥し小さく肩を竦めると、そのまま部屋を出て行った。私は彼女の憐れみを悟り、感謝を覚えた。

 ルシアーナが去ると、彼は大きく息を吐き出し、胸に巻かれた包帯を再び押さえて目を伏せた。彼は私の言葉を待っていた。私は率直な言葉を選んで彼に告げた。

「君にはまだ話していないことがあるはずだ。聞こう。君さえよければだが」

 彼は目を伏せたまま眉を上げ、頷いた。

「ええ、もちろんです。話さなければいけません」

 彼はゆっくりと身体を動かし、治療台から足を下ろした。胸の傷を庇って小さくうめき声をあげると、彼は私を見上げた。

「あとで僕の研究室に来てもらえますか? どうもここは落ち着かなくて……それから、部屋でいくつか確認したいことがあるんです」

 そして私を鮮やかな緑の瞳でじっと見つめると、彼はその目を細めて静かに笑った。

「それに……ええ、やっぱりあなたにはあの花が似合います。似合うというのはつまり、美しいんです」

 彼は躊躇わずにその言葉を口にした。私は彼の物語が、血に染められた陰惨な結末ではなく、優しい失意に満ちた終わりを望んでいることを理解した。


 私が研究室を訪ねたとき、彼は林檎の木に水をやるところだった。水差しをそっと傾けてプランターに水を注ぎながら、彼は私の気配に語りかけた。

「半年くらい放っておいても平気なものなんですね。萎れていてもおかしくないと思っていたんですが」

 彼が見上げた木の枝いっぱいに、白い花が咲き乱れている。甘い香りを胸に入れながら近づくと、彼は水やりの手を止めて私に椅子を勧めた。

「かけてください。すみませんが、僕も座りながらで失礼します。まだ……妙な感覚で。自分の身体の重さが感じられないんです。地面を蹴ったらそのままどこまでも登って行ってしまうような……いえ、やめましょう」

 私は勧められた椅子に座りながら、作業台に水差しを置く彼の姿を眺めた。音もたてずに正しく回転する歯車のように、彼の動きは空虚な潔さを見せていた。彼は金属のテーブルを挟んで私の向かいに座りながら、さて、と切り出した。

「あなたが来るまでのあいだ、何から話せばいいかをずっと考えていました。と言うのは、あなたが既に全てを知っているはずだからです」

 そう言うと、彼は林檎の葉の色に似た輝きの瞳で私を見た。いつもの涼しげで洞察的な視線の中に、青く渦巻く神秘を感じる。沈黙で促すと、彼は潔く口を開いた。

「ドラゴンの目的はわかりません。でも彼は、確かに気付いていたんです。僕があの瓶を……いえ、」

 言いかけて、彼は白い手でローブの胸元を強く押さえた。

「この瓶を持っていると」

 彼の手のひらの向こう、胸の奥にあるはずのガラス瓶の形を思い出す。記憶の中のそれは、私の書斎にあるものと同じ形をしていた。

「あなたの血です。わかっているとは思いますが」

 そう言ったきり、彼はそのガラスの感触を思い出そうとするようにじっと黙っていた。いつも必ず何かの実験のために動いている装置の音も、それを動かす燃料の匂いもない部屋で、沈黙の中に花の香りだけが立っている。やがて彼は私の目を見たまま、苦痛に魘される中で繰り返したのと同じ言葉を口にした。

「ごめんなさい。シリンダーに残ったものを捨てられなかったんです。どうしても」

 私はあらかじめ決めていた答えを彼に返した。

「君がたどり着いた結果だ。私はそれを非難しない。その言葉は私には必要のないものだ」

「ええ、でも……僕は鍵をかけるどころか、自分でこれを持ち出したんです。それも自分の、とても身勝手な欲求のために。皮肉なんです。偶像崇拝を否定しておきながら、僕はあなたが人であることの証明の拠り所として、あれを捨てられなかった」

 背後の作業台で、彼が作ったエネルギーの測定器が横顔を見せている。眇め見る私に、彼は小さく頷いた。

「そしてそれが結局、あなたが人を超えた存在であると証明することになったんです」

 そう言うと彼はゆっくりと振り返り、作業台の上の測定器を見た。そして再び私の顔を見て、いつも実験の説明をするときの淡泊な調子で続けた。

「危険だとはわかっていたので、あなたに渡したガラス瓶よりもかなり強く封印の魔法を施したんです。でも却ってそれがいけなかった。今僕の胸では、割れたあの瓶が……あなたの血が入った瓶が、心臓の代わりに動いているんです」

 固く握った拳をゆっくりと開き、彼は心臓の位置に手のひらを当てた。その感触がわかるかのように言葉を詰まらせてから、彼は続けた。

「ここへ戻ってすぐに、測定器を使ったんです。今までも確認のために自分で魔法を使って試したことは何回もありますが、僕の魔力では、針が動くかどうか、壊れていないかどうかわかるというレベルの反応なんです」

 大きく広がった林檎の枝が、宝石のような瞳に影を落としている。彼は両手を広げて測定器を示すと、肩を竦めた。

「……針が動かないんです。おかしいと思い調べたら……ええ、もうわかっていると思います。壊れていました。つまり、僕が壊したんです。あなたが壊したのと同じように」

 彼の眼差しは率直で、いつも実験の結果を述べるときのそれと何も変わらなかった。しかしその表情は、戸惑いと決意のあいだで彷徨っていた。

「一つだけ確認したいんです」

 若木のような指が一本、私の前に無遠慮に立てられる。

「あなたを責めたいわけではありません。これは僕の身勝手な欲求の続きです。でも、教えてください。あなたはこうなることがわかっていてあのとき実験の提案を? 僕をここまで導いたのは、シル、あなたですか?」

 古い記憶を呼び覚まされて、私は一瞬ためらった。しかし彼にとっては初めて私に向けるその質問に、私は答えなければいけなかった。私はようやく言葉を手に取った。

「私は君が進む道を照らすことはできても、その道を選ぶことはできない。これは君が辿り着いた結果だ」

 彼は沈黙していた。彼にとってこの結果が、祝福ではなく呪いであることを私はわかっていた。私は頭上の林檎の木を仰ぎ、その薄紅を帯びた白い花の隣に小さな果実を見つけ、彼に尋ねた。

「君はこの木から果実が落ちるのは何故だと?」

 私の問いかけに、彼はあまり考えずに潔く答えた。

「実が熟せば、その時がやってくるからです。選べるものではない」

「正しい答えだ。それと同じことだ。時が来れば、果実は自然と枝を離れていく。私は枝に実った果実を手に取ることも、それを受け止めることも出来ない。ただそれが落ちていくのを眺めるだけだ」

 私の言葉を反芻するように唇で追いかける彼に、私は言葉を付け加えた。

「だが、熟れないままに落ちる果実を作らないために、風を避け、鳥を遠ざけることには手を尽くすつもりだ」

「……ええ、わかっています。それがこの街です」

 私は答えを返さなかった。彼はそれを咎めず、わずかに表情を緩めて口を開いた。

「恐らく、あなたの言葉が正しいんです。あなたが導いたわけでも、僕が選んだわけでもなく、単に僕がここへたどり着いたというだけのことです。……皮肉ですね。僕にとって憎むべきとも言える謎が、暴かれないまま今度は僕の中にあるんですから」

 彼はそこまで言うと、再び胸を押さえて俯いた。彼の広い額を見つめながら、私は予想した言葉が彼の口から告げられるのを待った。

「整理がついたら、ここを出ていくつもりです。僕は天秤を壊しました。当然あなたに及ぶような力ではないはずですが、不安定な力を持ったまま近くにいれば、僕はあなたにとって危険になり得ます。……どちらにしろ、勉強のために旅が必要だと思っていたところです」

 彼の決断を止める理由はなかった。私はそれを探すつもりもなかった。用意していた言葉を口にしようとして、私は顔を上げない彼の姿に、彼と初めてここで会ったときのことを思い出した。あの時彼は、林檎を取り落した手を胸に当て、今と同じ姿でこの部屋に立っていた。そして私は、彼が取り落した果実を、この機械の手で床から拾い上げたのだ。

 果実は落ちていくしかなく、私はそれを救うことも出来なければ止めることも出来ない。しかし木から離れて拾う者のない果実のために、時にこの手を伸ばすことがあるのも確かだった。それは私の弱さであり、傲慢でもあり、恐らくは私が人であることの証だった。

「君は出口を見つけたと?」

 俯いて私の言葉を待っていた彼は、意表を突かれたように顔を上げた。当然彼は別の答えを予想していたはずだった。答えを口に出来ずにいる彼に、私は続けた。

「君が私について立てていた仮説は正しいはずだ。私はその証を持っている。少なくとも今この時は。だがその証は私の手の中だけにあるものだ。君は君自身で道を見つけなければならない。それに、君の天秤は壊れてはいない。君は均衡を取り戻せるはずだ」

 出会った頃と変わらない新緑の色の瞳が、私をじっと見つめている。その森に再び穏やかな風が吹くのを感じながら、私は彼が静かに口を開くのを見た。

「彼が……あの青い目の男が、不思議なことを言ったんです」

 風を思い出した緑のあいだから、青い空がわずかに覗く。彼はゆっくりと言葉を選んでそれを繋げ始めた。

「彼と僕は、同じ連鎖に連なっていると。そしてその連鎖は、どこにも繋がらないまま回る一つの歯車のように、目的を失った因果の連続であると」

 それは彼が聞いた言葉と言うより、彼から生まれた言葉のように聞こえた。彼は自分でもそのことに驚きを見せたあと、頷いて続けた。

「その時は意味が分からなかったんですが……今、理解したような気がします。僕は一つの大きな仕組みの中で、他の何とも繋がらずに回り続ける歯車です。しかも今や、ちょっとやそっとじゃ壊れなくなった。……きっと僕には出口は用意されていないんです。それでも僕は証明を諦めはしません」

 彼の瞳には、複雑に織られた長大な物語が渦を巻いていた。私はそっと目を上げ、彼が長い年月をかけて育てた林檎の木を眺めた。柔らかな緑と白い花々の中で、小さな果実がいくつも揺れている。輝く赤を湛えたその生命の証は、ささやかで、しかし強く美しかった。

「……計測器の修理を。君の力は私にとっても未知のものだ。新しい実験も出来るだろう」

 彼は驚かなかった。じっと私を見つめ、彼は小さく眉を下げながら言った。

「いいんですか。言ったように、危害が及ぶかもしれません」

「洞窟探検には怪我がつきものだと。君の言葉だ」

 私が返した言葉に、彼は一瞬面食らった顔をしたあと、歯を見せて気持ちの良い声で笑った。それは私が初めて見る彼の心からの笑顔だった。笑うと途端に幼く見えるその表情を、私は新たな発見として記憶した。

「……わかりました。あなたが許してくれるなら、そうしましょう。ただ、落ち着いたら旅には出ようと思っています。もちろん、たまには帰ってきます。少なくともあなたよりは頻繁に。今回の旅で、もっと広い視野で研究をした方がいいと気付いたんです。何せこの数十年間、僕はあなたのことしか見ていませんでしたから」

「君がそうしたいなら、そうするといい。君に与えられた時間は君の想定よりも遥かに長いだろう。だが無限ではない。君自身の望むことに使いなさい」

 質問もせずに潔く頷いた彼の瞳に、私は新しい予感を覚えた。心に秘めておくべきその予感を、私は自分の手で静かに摘み取り、彼に差し出した。

「君はこの洞窟を、私よりも長く歩くことになるかもしれないな」

 告げてから、その言葉が彼にとって残酷なものであることに気が付いた。彼の否定の言葉を受け止めるつもりでいると、しかし彼はまだ笑みの残る表情のまま、私をじっと見つめて囁きを返した。

「そうかもしれません。僕もそんな気がします。でも、僕は例えあなたを失うことがあっても、この証明を諦めません」

 彼の瞳には、新緑の枝のあいだから鮮やかな空の色が覗いていた。私はその瞳を見つめ、終わりのない因果に囚われた彼の、そして彼らの安らぎを願った。少なくとも今この時は、私は一人の人であった。


 落ち着いてから旅に出ると言った彼は、しかしなかなかその準備に取り掛かることが出来なかった。手にした力を制御する方法を編み出すために、彼は以前にも増して熱心に実験に取り組んだ。皮肉なことに、その研究を長引かせているのは、彼の強靭な天秤が原因だった。

「制御はしたいんです。力の全体量は保ったまま、一度に使用できる力を制限するのが一番いいだろうと。ただそのための装置を作るのは間違っている。そんな装置を作ったとして、あなたにも使おうなんて乱心を起こしたら大変なことになります。僕がそんな気を起こさなくても誰かがそうしたいと思えば、いくら暗い洞窟や奥深い遺跡に隠したところで見つけ出されるんです。タムリエルの歴史っていつもそんな感じじゃありません? いつ誰がそんな狂気を持つかわかりませんからね。……失礼、また脱線を。もう一度実験を?」

 きっちりと結い上げた髪を忙しなく揺らし、滾々と言葉を口にしていた彼は、装置の目盛から顔を上げて私に尋ねた。私は轟音を立てて回り続けるエネルギーの泉を見上げて、短く答えた。

「今日はここまでに。君も休むといい」

「わかりました、では続きはまた今度に」

 以前であれば決して口にしなかった曖昧な時間を示す言葉を、彼は躊躇わずに使うようになった。しかしそれは未来に関することを話すときだけで、今でも彼は私が姿を現すたびに、前回からどれだけの時間が経過したかを正確に告げた。それを幾度か繰り返すほどの長い期間、彼は力を制御するための実験に明け暮れていた。手際よく器具を片付ける彼の背中を眺めながら、私は彼に尋ねた。

「旅の準備は」

 彼は結った髪を跳ねさせ、素早く振り返った。実験に関すること以外の話題は随分と久しぶりだった。

「旅……ええ、まあ、そうですね。……いえ、正直全く目途が立ちません。きちんと自分で制御できるようになってからにしたいんですが、先ほど言ったように、装置を残せないとなると難しいんです。心臓を機械に置き換えられないかをスラグのダロマーに相談することも考えたんですが……これはこれで残したいんです。とても大切なものなので。つまり、機能的にも、抒情的な意味でも」

 片付けの手を止めて自分の胸を押さえると、彼は浅くため息をついた。私が彼に言葉を返そうとすると、彼ははっとした様子で顔を上げ、胸に当てた手のひらをこちらに向けて私を制した。

「待ってください。あなたはまた僕を唆そうとしてますね? もうその手には乗りませんよ。この件は絶対に譲れないんです。設計図も僕の頭の中にしかありません。僕はどんな拷問に遭ってもそれを言いませんし、自分でも作りません。絶対です。この話はもうやめましょう」

 一息にそう言うと、彼は再び黙り込んで器具の片付けに取り掛かり始めた。沈黙している背中に、私は正直な驚きを込めて言葉を返した。

「設計図まで出来ているとは思わなかったな」

「……ちょうど今失言に気付いたところです。どうか忘れてください」

 振り返らないままため息をついた彼に、私は最近ルシアーナが何気なく口にした報告を思い出し、彼に尋ねた。

「スラグ・タウンの鋳造窯をもう一度直したと」

 器具から伸びた鉄線を小さく丸めながら、彼が顔を上げた。

「ええ、だいぶ前ですが。直したというか、一から作り直したんです。前回作ったものは、スラグの荒っぽい使い方には向いてなかったようで」

「前回のものはどこへ?」

 私は既に答えを知っている問いを彼に向けた。彼は気付いていない様子で、肩を竦めて私の質問に答えた。

「どこへ? さあ、どこでしょう。全部壊して、鉄くずにして、新しく作った鋳造窯で試しに溶かしました。今頃は食器にでもなってその辺に転がっているかもしれません。……それが何か?」

「相反だ。多くの者がそう呼ぶだろう。だが君にとってはそうではない」

 私の言葉を聞くと、彼は手にしていた器具を作業台の上に置き、身体ごとこちらへ振り返った。

「相反?」

「創造と破壊だ。苦心し、時間をかけて作り上げたものを、君は迷いなく壊すことが出来る。多くの者は誤りを見つけたときに、既存のものを修正し、修理することを考える。だがほとんどが誤りを重ねるだけの結果になるだろう。君のその特性は稀だ。そして君はその能力に秀でている」

 彼は瞬きをして、しばらく私の言葉の意味を考えていた。しかし私の意図には気付かない様子で、彼は思い出したように口を開いた。

「ああ、ルシアーナから聞いたんですか? 僕が古い鋳造窯を壊している隣で皆が唖然としているのを、彼女に見られたんです。彼女は金槌を振り回している僕を見て、鋳掛屋ではなく破壊屋だと皮肉を言いましたよ。……ええ、確かに躊躇いは全く感じません。執着がないんです。僕が関心があるのは望んだ結果に辿り着けるかどうかであって、目的を果たせないのであれば尚更ですし、一度目的地に辿り着ければ、どれだけ時間をかけたものであっても……」

 そこまで言うと、彼ははっとしたように言葉を止めた。私に向けていた温度のない視線を逸らしてから、彼は小さな声で続きを口にした。

「壊します」

 私は頷いて、彼に同意した。

「君は壊すだろう。跡形もなく」

「……ええ、跡形もなく」

 しばらくの沈黙のあと、彼は目を閉じて小さく首を振った。私は彼が口を開く前に、この話題を終える言葉を告げた。

「君に関する個人的な見解だ。この街への君の協力に感謝しよう。今日の実験の続きはまた今度に」

 私は彼の答えを聞かずに、泉のあるアトリエを去った。そして私はしばらくのあいだ他の研究に時間を割くことにした。彼がこれから取り掛かる研究は、それなりの時間を要するものになるはずであり、そして今や彼は「今度」という表現の曖昧さについて私を責めることは出来ないはずだった。

 それから私は多くの時間をコギタムで過ごし、時折聖堂に戻れば、彼のことで私の干渉を求めるルシアーナを宥めなければならなかった。私が不在のあいだに、彼は「何らかの」エネルギーの暴発によって研究室の壁を四回壊し、二回天井に穴を開けた。彼は実験に失敗しただけだと説明したようだが、ルシアーナはそれを「何かを壊すための言い訳」だとほとんど断定していた。その話を聞き、私は彼の研究が進んでいることを確信した。

 そしてある日、ルシアーナが書斎にいる私を呼びにやってきた。

「彼です。しばらく何かを壊すのをやめたと思っていたら、今度は旅に出ると」

 私は作業台の上で行っていた簡単な実験の手を止め、彼女を見た。今回もまた、彼は私の想定よりも早く事を動かしたようだった。

「あなたに会っておきたいそうです。時間が許すようなら」

「いいだろう」

 私は実験を中断し、作業台から目を上げた。部屋の隅にある小さな飾り台に目をやると、赤い液体が入った円錐型のガラス瓶の隣で、幾度も修理されたアミュレットが淡い黄金の輝きを発していた。飾り台に近づくと、背中にルシアーナの低い声が投げられた。

「一つ聞いても?」

「構わない。言いなさい」

 機械の手と同じ色をしたアミュレットを持ち上げ、私は振り返った。彼女の重く強靭な戦士の姿は、私の答えを聞くまで扉の前を動かないと言いたげな様子だった。

「あの日、彼の胸の中にはいったい何が?」

 手の中のアミュレットを握り直す。彼女の思い浮かべるその日に、同じようにこれを手にしたときの感触を思い出しながら、私は彼女に尋ね返した。

「彼にも同じ質問をしたことが?」

「……あります。彼は、ポーションのようなものだと。それ以上は言いたがらないので」

「ポーションか。一つの正しい答えだ。だが毒と呼べるものでもある。いずれにしても、今ではもう彼の一部だ。彼以外の誰かの薬になることも、毒になることもないだろう」

 彼女は私がはっきりとした答えを出さないことを、初めからわかっていた。頷くことも繰り返すこともなく、彼女は別の質問を口にした。

「それは、彼に関係のあるものですか」

 彼女の言う「彼」が、彼とは別の人物であることはすぐにわかった。私はしばらくのあいだ沈黙した。ルシアーナが塞ぐ扉の向こうから、何百年ものあいだ変わることのない、ファクトタムの平坦な声と、シーケンス・スプールが規則正しく回る微かな音が聞こえる。無数の果実が落ちるにも関わらず、この世界の土壌はいつまで経っても豊かさを知ることはない。そして痩せたままのこの土地に、落ちた実から芽吹いた命が根を張り、新緑を萌やすその繰り返しの意味を、私はまだ知ることが出来ずにいた。

「わからない」

 私の短い答えに、ルシアーナは目を見張った。静まりかえる部屋で、私は古い傷を撫でるようにゆっくりと呼吸をし、言葉を足した。

「……だが彼が今この街にいることは、決して偶然ではない。そして彼にとってはあまり重要なことではないだろう。彼には彼の目的がある。それは誰かが奪えるものでも、与えられるものでもない。彼自身が探すべき答えだ」

 ルシアーナは少しだけ考えることを試みて、すぐに諦めた。彼女は肩を落としてため息をつくと、ようやく重い機械の身体を動かした。

「……わかりました、もうこの話はしません。彼を待たせてます」

「行こう。君も同席を」

「ええ、そうするつもりです。多分また必要になりますから。……行けばわかります」

 扉の前からようやく動いて、彼女はそう言った。私が聞き返そうとすると、彼女が何気ない調子で私に尋ねた。

「ところで、その彼の目的というのはいったい何なんですか?」

 私は彼女の隣をすり抜けて身廊に出ると、先ほどと同じ言葉を口にした。

「彼にも同じ質問をしたことが?」

「いえ、ありません。研究のことになると厄介になりそうなので、聞かないことにしてます。理解できるとも思えませんから」

 後ろから追う投げやりな彼女の言葉に、私は満足した。

「それはよかった。君は聞かない方がいいだろう」

 身廊を歩きながら、私は聖堂の変化に気付いた。金属だけで出来た無機質な聖堂に、甘く瑞々しい生命の香りが満ちていた。私の背後で、ルシアーナが小さく笑う。先ほどの彼女の言葉の意味をようやく知り、私はホールで待つ彼の姿を想像しながら彼女に尋ねた。

「使っていない水差しが?」

「……いえ。今回はちゃんとした花瓶があるんです」

 彼女の声ははっきりと笑っていた。随分と久しぶりにその明るい声を聞いて、私は思わず振り返り、彼女の表情を確かめた。橙色の見慣れた灯りの下で、疲弊した戦士の顔が綻んでいる。私自身には二度と向けられないはずの、彼女の心からの笑顔だった。

「ああ、その顔は驚いてますね? 彼が花瓶を作ったんです。使い終わった装置を壊して、鋳直したとか。まあ、見てやってください。悪くないですよ」

 開いたままのホールの扉の向こうで、背の高い彼が私を待つのが見えた。彼が手に握った細い林檎の枝には、薄紅を帯びた白い花がいくつも咲き乱れていた。彼は私の姿を認めると、花をこぼれそうなほどに揺らしてこちらへ歩み寄った。

「シル。会えて嬉しいです。前に会ったのが確か……いえ、まず花を」

 躊躇いなく私に近づく彼の背後の台に、この街のあらゆる物と同じ色に輝く小さな花器が置かれていた。それは私の書斎にまだ置かれたままの水差しと似た形をしていた。

「さあ、受け取ってください。よく似合います。つまり、とても美しいです」

 彼の大きな手が遠慮なく私の手を取る。彼が創り出した力強い生命の証をこの機械の手に握らせて、彼は迷わずに私を見つめた。新緑と青空を湛えた瞳には、美しく咲き誇る花々を手にした、一人の小さな人の姿が映っていた。